キリスト教の礎 イエス・キリスト
Contents|目次
人間なんて、オギャアと生まれた最初は皆、純粋無垢で、清廉潔白な天使なのだ。だが、ちょっとしたこと、ほんのちょっとしたことや、その積み重ねで、人は『善』にも『悪』にもなってしまうのである。つまり別に人に差異などあまりない。悪に生きる人間も、ちょっとしたことで『善良な人』になり得るし、善に生きる人間も、ちょっとしたことで『悪人』になり得るのだ。
例えばマフィアが敵対する組織をマシンガンで乱射し、相手を皆殺しにした。その一週間後、ふと別の町で買い物をしているとき、体の不自由な老人の帽子が風で飛ばされて落ちた。男は拾い、老人に帽子を取ってあげた。
老人からそう言われた男は、老人から見たら明らかに『善人』。その周りの人も同じように彼のことを見ただろう。だがその男は、一週間前に人をたくさん殺したのだ。こんな風に、何が善で、何が悪か。その殺した相手が、男の娘や妻を理不尽に強姦して殺していたかどうかでも、また見る目が変わってきてしまうように、人間の『善悪の基準・判断』は、ちょっとしたことで大きく揺れ動いてしまうのである。
そう考えると、
大したことないよ、あんなこと。やらなくても(やっても)別に大きな影響はない。
そう考えてないがしろにしてきた、あるいは軽薄に考えてきた全てのことは、もしかしたら『大したこと』だったのかもしれない。
コヘレットの書 第10章。