キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
先日『ノア 約束の船』を見たが、15年前の私なら理解できなかった。まず、キリスト教という宗教絡みの時点で全身が拒絶反応を示した。だがあれから実に波乱万丈な毎日が過ぎ、積み重ねられた。あの映画を理解できたのは、ハッキリと自分の成長だと自覚することが出来たのである。
人間は、自分たちの命や人生を『虚しい』と考えることがある。別に『尊い』と考えることもできるはずだ。『儚いからこそ、尊い』と。『他の一切の森羅万象と同じように』と。しかし、人間だけのことを人間本位に考え、『もっとこの幸せが続くべきだ』とか、『子供たちの幸せを祈って何が悪いの?』とか、とにかく常に『人間本位』で物事を考える。まず、『悪い』と思っていないのだ。そういう思慮を。その発想、思慮こそが、人間が虚しい存在に成り下がる理由だ。
命は、大事だ。だが、自分や自分の家族の命だけを最優先する思慮は、自分本位かつ人間本位だ。遠い異国の天災で人が亡くなっても涙しないのは、自分本位だ。虫を踏み潰しても何も思わず、土地開発の為に埋め立てた場所に生命がいても無視し、エゴ(技術の発展)の為にエコ(環境保全)をないがしろにするのは、人間本位だ。
それだけのことをしているのにまだ気づかないのか。別に人間だけではないだろう。そういう運命にさらされているのは。自分たちを中心にしてしか考えられない人間こそが、虚しいのだ。
参照:『ヤコブの手紙 第4章』
参照文献
ヤコブの手紙。
関連する『黄金律』
『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』
『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
『「生きる」ということの本当の意味とは。』