キリスト教の礎 イエス・キリスト
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生贄(いけにえ)などではない。そんなことは求められていないのだ。誰も求めていない。生贄として捧げられた命を何だと思っているのだろうか。そういうものを要求した瞬間に、私は彼らのことを『四聖』などと持ち上げることは無い。『四悪人』とでも言って、生涯戦い続けるだろう。
キリストだけではない。 孔子、ソクラテス、ブッダ、彼らは誰一人、『生贄』をよこせなどとは言っていない。『金や女を持って来い』などとも言っていない。それは越権行為だ。 こういうことをしないから、彼らは『四聖』に数えられるのである。『する人(教祖)』は、たくさんいるだろう。歴史に名も残らない様な小人は、昔も今も、これからも消えることは無い。
何を鎮めるため、何を丸く収めるため、何を隠蔽するためにそれをするのか。求められているのは『懺悔』だ。悔い、改めることだ。罪を知り、無知を知り、執着せず、利己を戒める。これが出来る人間は皆、立派だ。それ以外の人間は皆、『力』に屈したのだ。
詩篇 第51篇。