キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
私も考えたし、私だけではないだろう。
(なぜどうせ死ぬのに、生まれたのだろう。)
それについて憂う時代は個人差があっても、皆一度は体験しているはずだ。そう考えてから、ずっと引きずっている人もいるだろう。やったことすべてが水の泡になる。積み上げた経験やトレーニングが全て衰退していく。あれだけ躍起になった金も名声も地位も失う。いわゆる標準の寿命で亡くなる人などまだ良い方で、ときには予期せぬ事態に巻き込まれ、命を落とすこともある。命が失われれば当然、前述したことも全てが水の泡となり消える。
そんな事実を目の当たりにして、幾多の人間が憂い、嘆き、悲しんだだろう。思慮の浅さゆえに、取り返しのつかない結果を自ら巻き起こした人間も大勢いる。それについて巻き込まれた無辜(むこ)な命もたくさんある。この世は、この人生は本当に、ただただ儚く、虚しいものなのだろうか。
では視点を変えてみよう。年に一度夜空に咲き誇る大花火は、どうしてあんなにも人の心を惹きつけるのだろう。
それは、『アウラ』だ。アウラとは、『儚いからこそ、価値が出る』という概念。あれがもし儚くなかったら(毎日打ち上げられていたら)、人々は花火に対する価値を落とし、見向きもしなくなる人が増えるだろう。幾多のドラマや映画で『不老不死』について描いたものを見てきたはずだ。彼らに共通していたのは、彼らがどこか無機質な物体に見えたということだ。つまりアウラを感じなかった。
ブドウの房には汁が潤い、生命の体内には命が宿る。働いた後に食べる美味しい食事、命がけで登った山の上から見る景色、それでいいのだ。それを楽しむべきなのだ。この世は確かに儚い。だが、それを『虚しい』と取るか、『だからこそ尊い』と取るか、そんな命の選択によって、人の価値も変わるのかもしれない。あなたはどちらの選択肢を取る?
参照文献
イザヤの書 第65章。
関連する『黄金律』
『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』
『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
『「生きる」ということの本当の意味とは。』