キリスト教の礎 イエス・キリスト
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聖書では真理を『神』と言い、『愛』とも言う。難しくもなんともなく、この世には真理がある。真理というのは、いつどんなときでも変わることのない絶対不変の真実。例えば、1+1=2だ。その答えに従うということは、誰もが瞬時に了解できるはず。それと同じことである。もちろん、それの複雑バージョンだ。
最近のCMでも、
『恋愛と友情、どちらを取ればいいか。恋愛に方程式があれば楽なのに』
というキャッチコピーが流れているが、 そのように、1+1と同じように簡単には出ない答えもある。そして聖書にもそのようなことは書いていない。なんなら、『男同士の性行為を禁ずる』だとか、様々な『規制』が記されてあって、もし本当に性同一性障害が存在しているのだとしたら、それは聖書と真っ向からぶつかることになってしまう。
だが聖書を単なる『古典』だと判断するのなら、時代に合わせて考え方を変えていけばいいということにはなる。その他の部分では圧倒的に真理なのだから、少しぐらいは臨機応変でいいはずだ。むしろ2000年以上も前の書物に対して過剰に依存して反応することは、いささか思慮浅いと言われても、仕方がない キリストが今を生きていたら、きっとインターネットを使っただろう。
Twitterも、Facebookも、youtubeも使って、メディアに露出して、世に訴えただろう。人を救い、この世に光を差し、導くために生きている使命を覚えた聖者なら、それらをもっとも効率的に伝達出来る手段を使用したはずだ。そういう風に、聖書に書いてあるからといって、全てを鵜呑みにすればいいわけではない。時代に合わせた考え方で、柔軟に考えればいいのだ。だが、『真理に従う』ということに関しては、臨機応変にやるものではない。
たとえ何億年の月日が経とうが、 『1+1=2』だ。これを臨機応変には出来ない。 よく、『一人と一人が力を合わせれば、3にも4にもなるよ』と言う精神論があるが、それは精神論の話で、実際のその答えは『2』以外に存在しないのである。
では、冒頭に挙げた『複雑な恋愛の方程式』などはどうだろうか。真理は、どういう答えを導くのだろうか。聖書にはそのようなことについては具体的には書いていないのだが、こう書いてある。
『この声に耳を傾け、神に近寄れ。そして、神の言葉を聴け。さすれば、お前の魂は生きる。』
これを現代版に臨機応変に解読すると、
『真理に従って考えるのだ。そうすれば、あなたの人生は生き生きとして、スムーズなものになる。』
つまり、自分の心は何と言っているだろうか。相手の気持ちは、どちらに傾いているだろうか。その恋敵は、本当に自分の永遠の友だろうか。友であればなぜ、恋敵なのだろうか。
友というのは、恋人を目の前にすると敵になる、そういう脆い関係なのだろうか。それとも自分が身を引き、二人が両想いになればそれでいいのだろうか。それで二人のことを嫌いにならないだろうか。なるのであれば、本当に相手のことが好きで、恋敵のことを友だったと呼べるのだろうか。
もしかしたら最初から友ではなく、もしかしたら最初から好きではなく、 ただいつも一緒にいただけとか、ただその人に後光が差していた(ちやほやされている、人気がある)だけとか、そういう表層的な理由だけで、突き動かされていた衝動だった、 あるいは思い込んでいただけなのかもしれない。
例えば以前PRESIDENTに書いてあった記事に面白いものがあった。建築デザイナーとしての受賞歴を持ち、『Newsweek』の世界が認めた日本女性100人の一人にも輝いた、坂之上洋子氏が言っている言葉だ。
『学生の頃、CNNの番組で
“Look at your closest 8 friends,they are who you are.”(あなたの一番近い友人八人を思い浮かべてください。彼らが実は『あなた』なのです。)
という言葉が流れてきて、衝撃を受けたことがありました。人生は友人の存在で大きく左右されます。 しかし当時、私は身近に偶然にいた友人となんとなく楽しんでいただけで、 意識して友人を選ぶということをしていませんでした。いまは、社会全体をよくしようという『公』の精神を持つ人たちと時間を過ごしたい とはっきりと意識しています。それが私にとって一番わくわくして楽しく、また人の役に立つ取り組みができるかもしれないと 考えるだけで、自分が幸せな気持ちになれるからです。』
こういう考え方があるのだ。いつも一緒にいたはずの、幼稚園、小学生時代の同級生が本当に友人なら、 なぜ、現在一緒に行動していないかを考えるといい。だからもしかしたらその恋敵は、最初から『友人』ではなかったのかもしれないし、 好きだと思っていた相手も、単なる思い込みによる『妄想』だったのかもしれない。そこまで考えたうえで、もう一度 『真理に従え』という言葉と向き合ってみるのだ。
もしかしたら真理が、答えを教えてくれるかもしれない。『どちらかを選ばなければならない』 という発想は、そもそも『二択』の発想である。つまりもしかしたらその『二択しか無い』は思い込みで、広い視野を持つと、遥かに多い選択肢が広がっていることを知り、そしてその中から難なく最善の道を選択できるかもしれないのだ。
真理に従って道を考えるということは、とにかくそういう風に、自分たちの人生がより豊かに、生き生きとするということなのである。 自分が生き残るか、相手が死ぬか。そういう究極の場面でも、もしかしたら『二択』だけではないかもしれない。キリストやソクラテスをはじめ、幾多の勇気ある命が他の為に使い切られたように、自分の死が、その後の何十億人もの人生の規範意識となって植えつくのであれば、 どちらかが得をして、どちらかが損をする、そういう二択の発想に、悩まされずに済むのかもしれない。
参照:『イザヤの書 第55章』
イザヤの書 第55章。