キリスト教の礎 イエス・キリスト
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『知者』とは、『1+1=2』を知っている人だ。『無知者』とは、その答えを知らない人だ。それ以上でもそれ以下でもない。元々人間に大差などないのだ。それぞれの間にあるのは、その差だけである。
だが、 もちろん『1+1=2』ということを知っているだけでは、『知者』とは呼べない。『1+9=11』と答えてしまうのなら、彼は『その問題に対して』、『無知者』となるのである。逆にその問題を『1+1=2』の問いに答えられなかった人が答えたなら、彼はその問題に対して、『知者』となる。それだけの差だ。つまるところ知者と無知者など、相対的である。
ソクラテスはこのことの核心を突いた『無知の知』を説いて回った。
『あなたは知者のように振る舞っていますが、この問いに答えられますか?善とはなんですか?真理とはなんですか?』
答えられない権力者に逆ギレされ、髭をむしられることもあったという。しかし、知者と無知者など常に紙一重だ。そのことを、人生を懸けて説いて回ったソクラテスの功績は、とても大きいのである。
ソクラテスの例からもわかるように、この世にはまるで『知者のように振る舞っている人』が大勢いて、そういう人は往々にして『声を荒らげて意味ありげに』話をしているが、だからといってその内容が『浅薄』じゃないことにはならない。そのことは、狂った新興宗教などを思い浮かべればすぐに理解できるだろう。いくら大多数の人が耳を傾けていても、その意見が必ずしも『正しい』とは限らない。常に傾けるべく意見は『知者』の言葉だ。
コヘレットの書 第9章。