キリスト教の礎 イエス・キリスト
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『コリント人への第一の手紙 第6章』にはこうある。
この世において不正な人は、神の国を継ぐことが出来ない。淫行する者、盗む者、他人の妻や夫と関係を持つ者、身体を売る男、男同士で性交する者たち、金属や木などで造られた像を拝む者、つねに自分だけが得をしようと貪る者、大酒を飲む者、人を罵ったりあざける者、あの手この手で自分の利をはかる者たちもまた神の国を継ぐことが出来ない。もしあなたがどれかにあたるのであれば、すぐに自分を洗え。
さて。 『同性愛者』の部分以外は全て腑に落ちる内容だ。 だが、同性愛者は認められていないのだろうか。人間として、あってはいけないのだろうか。『性同一性障害』というものは、単なる思い込みによる『精神障害』なのだろうか。私は同性愛者じゃないし、むしろそういう人があまり好きではない。なぜかというと、彼らに対するこれは偏見でもあるが、彼らはちょっと、『普通』にしていないことが多いのではないだろうか。
ド派手に下品に騒いで演出したり、男湯を隠しカメラで撮影したり、その気がないのに強要したり、迫ってくる人が多い気がする。エイズも多い。別に、病気ならそれを見下してはいけないし、認めるべく存在であると思うけど、それ以前の問題で、私は『下品な人間』が嫌いなのだ。強要する人間も嫌い。
例えば性同一性障害で、本当は女性なのに、男の姿で生まれたと言い、身なりも立ち居振る舞いも女性らしく、おしとやかにして私に害を及ぼさないのであれば、私は(彼)彼女に対して何も思わない。周りにいる一人の女性として見て、そしてそれについて別に触れるわけではない。
もちろんこれは私の偏見で、知らないだけなのだろう。私は完璧主義で、整っているものが好きで、繊細なので、部屋が綺麗に片付いていないと落着けないし、左右対称の状態に安心するし、色合いが整っていると満足する。綺麗な女性を見れば『綺麗』だと思うし、太った女性を見れば『醜い』と思ってしまうし、それはもちろん自分の身体に対しても、同じように思う。そういう私の感性が、彼ら、彼女らに『違和感』を覚えてしまうのは、私の罪なのだろうか。それとも。
さて、もう一つ注目するべき文章がある。それが、『金属や木などで造られた像を拝む者』という部分である。実は、ブッダも同じことを言う。そして、ブッダの死後数世紀の間、その教えを守って、生徒たちは像を造らなかった。
ブッダは言ったのだ。
『個人(私)を崇拝するな。答は自分の心の中にある。』
と。しかし、それから数世紀後、アレクサンドロス三世がインドを制圧し、そこにギリシャ文化が融合したことから、そのヘレニズム文化の影響によって、ついに仏像は造られてしまうのだ。ブッダもキリストも、『像』を認めていない。さて、あなたが手を合わせ、祈りを捧げている『それ』は、一体誰への祈り?
コリント人への第一の手紙 第6章。