キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
見て見ぬフリをしたり、言うべき意見を言わずに傷をなめ合う人間関係に甘んじない方が良い。面と向かって意見し、時には批判し、口論する方が、本当の平和が作られることがある。例えば、料理だ。 家族でも恋人でもいい。料理を作ったとする。 そして、不味かった。美味くないのだ。どう考えても。いちゃもんをつけるのではなく、本当に不味い。そして、美味いときも当然あるのだ。 ここがポイントだ。 美味いときもある。
だが、今回は不味い。 だとしたら言うべき意見は『不味い』である。 相手が美味いと言ってほしそうにしていても、どれだけ『やったつもり』でいても、 それを言うべきではない。なぜなら、相手がよそで恥をかくからだ。そしてそれを言った延長線上には美味しい料理を作る相手の姿があるが、言わなければこの料理は一生不味いままなのである。
そう言う人間は、まるで自分が良い人間になったつもりでいるが、実際は違う。 『その場』を壊したくないのだ。『自分もいる、その場』を。 気まずくなりたくない。それに、『相手の将来性』や、『よそでの恥』まで考え切れていない。それなのに、良い人間を演じる。私の知人で実際にそういうことがあった。 料理を作ったのは私の知人だ。
美味い物は美味いし、不味い物は不味い。損な役割だとわかっていても、『その場』がどんなに凍り付いても、私は、相手の為になることを言ったのだ。 もちろん、私は年に数回しか会わなかったから、普段、その料理を作った知人が関わる人間、つまり『綺麗ごと』を言った人間の方が、単純接触は多い。
だから厳しい(真実の)意見を言う私が『空気を乱す嫌な人間』の扱いを暗に受けたが、その後、その知人は何かの料理コンテストで、賞を取れなかった。コンテストに出たぐらいだ。章を取るつもりだったのだろう。だが、ダメだった。勝ったのは、『こういう教え』を受けていた人間だ。
いろいろな採点をクリアできるのは、そういう隙が無い、自分に厳しい人間だ。 負けてどう思っただろう。私以外の周り(多分)には、『美味しい』ともてはやされたのだ。自信があった。 だが、それは『過信』だった。 教育とは、時に損な役割を買って出なければならないことを、肝に銘じるべくワンシーンである。
また違うシーンでは、
と言い返しをする人間もいた。 だが、私はすぐに言った。
『例えばこの間のチーズ美味い物は美味い。不味い物は不味い。それだけだ。人格を否定されていると思っているんだろ? 実際は違う。 ただ美味い物に『美味い』と、不味い物に『不味い』と、反応しているだけだ。ケーキはとても美味い。我が家の伝統料理だと言っていいだろう。
だが今回は不味い。 なぜ不味いのに『不味い』と言ってはいけないんだ? だったら、美味いときも『美味い』と言ってはいけないよな? それとも、不味いときも『美味い』と言った方が良いのか? 本当は不味いと思っているのに、それで良いんだな?
いいか、俺が作ったらもっと不味いんだ。だから俺が批判しているのは、『料理』であり、『人格』ではない。 感謝をしているということは、どんな料理を食べてもその後の皿を、必ず洗うという部分で意思表示している。『いただきます』、『ごちそうさま』 これを言わなかったことはあるか? それをよく考えるんだな。』
言い方が偉そうなのは理由があるから置いて考えてもらいたい。相手は黙るしかなかった。その後の料理の味はどうなったかって? とても美味しい料理を食べることが出来ている。 心底から『美味いね』と言うことが出来て、相手も心底から、それを嬉しいと思ってくれているだろう。これこそが、『本当の平和』である。
見て見ぬフリをして争いを避け、平和主義を演じるのはやめよ。 私はその意見を言うとき、いかにあっけらかんとしているように見えても、本当は大きなストレスが心を押しつぶしている。 確かに言わなければ波風は立たない。だが、それは本当に相手の為になるのだろうか。いや、自分の為にしかならない。 波風も立たない。批判の矢も当らない。出る杭として打たれない。誤解されることもなければ、嫌な空気も味わう必要もない。
(なぜ相手の為に、自分がそんな、損な役割を買って出なければならないんだ)
人は弱くて、卑怯で、醜い。そう思ってしまうものだ。 弱いその心に打ち克ち、自分の為ではなく、相手の為を思って意見する人間こそ、真の平和主義者なのである。
参照文献
格言の書 第10章。
関連する『黄金律』
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』
『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』