キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
この世には圧倒的な力が渦巻いている。例えば宇宙の端から端はどれぐらいの距離があるか、あるいは『無限』なのか。他の宇宙はあるのか、そこに人間はいるのか。ビッグバンはなぜ起きたか。起きる前のこの世は、何だったのか。神がやったのか。 神は何人いるのか。一人なのかあるいは人の形をしていないのか。
おそらく、これらの答えに人は、未来永劫答えることは出来ないだろう。それを確信することが出来ないからだ。そう考えたら『神』と人間が呼ぶその存在を自分の規範として生きることは、なかなか筋の通った話になるかもしれない。 私はそうしない人間だ。その信仰の強要によって、とても嫌な思いを強いられたからだ。そして、それについての意思表示をすると、『反抗』と呼ばれ、あるいは反抗期と呼ばれた。
だが、『反抗』とは、 『基準から外れようとする行為』 という意味である。では、『基準』とは? 自分が『基準』だと断言できる人間が、この世に存在するのだろうか。
答えは『No』である。いたとしたらそれはただの、思慮浅い愚かな人間である。『反抗期』という言葉の意味もわからないで流されて使っている人間が後を絶たないが、私はこの言葉の意味を知ってから今も、そして生きている限り一生、このことについて言及し続けるだろう。
それでは『基準』の話を紐解こう。世の中の『基準』とは、人生の『基準』とは、 一体なんなのだろうか。
先輩?
親?
年上?
違うだろう。それらの存在が外道であることは往々にしてある。必要な相手に必要な知性を教えるのは『教育』だが、嫌がっているのに押し付けるのは『強要』だ。 では、
ルール?
しきたり?
法律?
道徳?
だいぶ近くなってきた。だがまだ完全ではない。それを決めるのは別に外道でも出来る。
ソクラテスは言う。
『悪法もまた法なり。』
なにかぶれない道標はないか。もっと絶対的なものはないのか。
約束?
信頼?
信念?
信仰?
これなら綺麗になってきた。『信じる』という言葉が入る概念は、『大切にしたい』という人間の優しい気持ちが組み込まれている。世の中に絶対的なものはないが、この『大切にしたい』と思う気持ちは、とても尊いものだ。 だが、更に『基準』に相応しい概念がある。そもそも『これは信仰だ』と言ってテロ行為をする人間もいるわけで、それを『基準』と呼ぶわけにはいかないのだ。 突き詰めると、ある概念に到達する。それが、
愛、
良心、
真理、
原則、 そして、『神』である。
神=真理。
つまり、信仰を持ってこの基準を『神』と呼ぶかあるいは信仰を持たずこの基準を『真理』と呼ぶか。どちらにせよこの『基準』は、絶対に崩れることのない真実である。崩れると思うなら、それはただの勘違いだ。
例えば『愛』を勘違いして人を殺める人がいるが、『愛』とは与えるものだ。奪うのは『恋』。それは単なる、『愛』のはき違いである。それに従って生きてさえいれば永久に『反抗期』に入ることは無い。道も大きく踏み外すことは無い。なんなら、歩くべき道を確かに歩くその先には、光り輝く未来があるだろう。
イチローは言う。
その『確かな一歩』がどの道のことなのか、どういう一歩なのか、人は迷い、道を踏み外すものなのだ。神とか真理とかそういうことはひとまず置いて、もし自分のやるべきことが毎日わかっていたら人は、おそらく自身に満ち溢れ、潜在能力もいかんなく発揮し、悔いの残らない人生を生き貫けるのではないだろうか。
諸行無常のこの世にも、確固たる道がある。それを見つけられた人の人生には、迷いが無いのだ。 自分の『良心』に従うか、自分の『神』に従うか、 どちらでもいいが、人の心にこれらがピタリとハマった時、人はこの儚くも虚しい人生を、力強く生きていくことが出来るのだ。それはとても、素晴らしいことだと思わないだろうか。私は思う。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
参照文献
ローマ人への手紙 第2章。