『図解「哲学」は図で考えると面白い』にはこうある。
哲学はほんとうに難しい?
『哲学』と題された書物は、よほど興味を持っている人以外、手にすることはないだろう。たとえページを開いたとしても、やたらと難しそうな言葉が並んでいる。『何もここまで何回にすることはないじゃないか』と言いたくもなる。哲学は、たとえるなら抽象画を読み解く作業に似ている。キャンパスにはやたらと赤や青や緑、黄色などの色が塗りたくられ、いったい何が描かれているかわからない。題名には『混沌』などと書いてある。
哲学が難しいと思っている人は人生を損している。確かに、『夜眠りたいときは哲学の本を読め』という言葉まであるくらいだ。まず世の多くの人が哲学を忌み嫌う傾向にあることがわかる。更に、この本にあるような説明を聞いても、余計に分からなくなる。この本自体は各哲学者の教えをわかりやすく説明しているが、それでもこの最初の説明は全く意味が分からない。そう思ってしまう人が大勢いるだろう。
考え方次第だ。例えば私も哲学や心理学といった学問とは無縁の人生を生きていた。しかし、今の私は違う。まず聞きたいが、私のように中学校の授業もさぼっていたような人間に負けて悔しくないだろうか。この時点で、哲学というのは何かのスイッチが入れば誰でも簡単に理解できるようになるということがわかる。
私が読んでいた本など、『少年ジャンプ』の類が精いっぱいだ。余暇時間は好きなスポーツをするか、ゲームだ。それも、同級生が授業を受けている間にそういうことをしていた。だから私の知能指数など低いのである。偏差値が低いのだ。
それなのに、今の私は哲学について、人に『簡単だ』と説明している。アインシュタインは言った。
もし私があなたに(私のような高知能者しか理解できない領域なのだ)というニュアンスを、少しでも込めてこの説明をするのなら、私は哲学のことを何ら理解していないと言えるし、そして私の知能指数は本当に低いということになるだろう。
もちろん私はこの世の全ての哲学を含めた学問を何らマスターしている存在ではないので、そう偉そうには言えないが、単純に、哲学から得たことがあまりにも大きかったので、それを皆さんに知ってもらいたいのである。知らないまま、食わず嫌いのままだと損をするからだ。
それは、私がかつてそれらとは無縁の人生を生きていた時期があることを説明したから、わかってもらえるだろう。私はその時期を誰よりも経験していて、そして今の自分を考えた時、単純にその新しく知りえた境地について、皆さんにも知ってもらいたいのである。
では、私がなぜそれらの類に興味を持ち、そしてその概要を理解できるようになったか。それは簡単なことである。『興味を持ったから』だ。これが絶対的な原則である。例えばあなたが好きなジャンルは何だろうか。美容関係だろうか。芸能関係だろうか。スポーツ関係だろうか。youtuberの情報でも、好きなアニメのキャラクターの誕生日や声優など、なんでもいいが、人は自分が興味を持った者に対しては、やめろと言われても主体的に調べるものである。
それを部外者から見るとある種の『オタク』だ。だが、そもそもオタクとは、
『自分の好きな事柄や興味のある分野に傾倒しすぎる人への呼称であり、ある物事へ一般人よりはるかに熱中している人・詳しい人』
のことである。日本ではこの言葉にある種の軽蔑視のようなニュアンスが込められているが、高みに上った人間からすると、こういうことになる。
ビル・ゲイツは言った。
北野武ならこうだ。
つまり、人はまず何らかの分野を好きになり、興味を持ち、そのオタクになることで、その分野のことを主体的に知り尽くすようになる。であるからして、哲学を理解するためには『オタク』になることが重要だ。そうなれば、もはや何の本にどう説明が書いてあっても、意味が分からなかったら辞書で意味を調べ、また違う本を見つけてきては、理解するまで勉強を続けるだろう。
それは、宗教などの分野においてもそうだ。すべてがそう。私は学校をさぼっていたと書いたが、その時は他人から勉強を強いられても、一切聞き入れるつもりはなかった。人の言うことを聞くのはしゃくだし、それ以前に自分の家庭上の宗教問題で、それどころではなかったのだ。まずはその問題を解決してからでなければ、前に進めなかった。私はそういう性格なのだ。
だが、あれから20年以上経った今、私は主体的にこうした類の学問に目を向け、その勉強を続けている。誰にも指示されたわけではない。それが有意義だと知っているし、主体性があれば理解できない分野などほとんど存在しないのを知ったからだ。
つまり、もしあなたが哲学や宗教といった分野の情報を主体的に欲していなければ、他のどんな人が何を言っても無駄だ。何らかのきっかけでこれらに主体的になったとき、あなたは勝手に勉強をしているだろう。そしてこうした学問は、あなたがいつそのようなモードになったとしても、いつでもあなたを受け入れてくれるだろう。
一つだけ注意しなければならないのは、人生は有限だということだ。