『黒田官兵衛の言葉』を自分のものにしよう!

黒田官兵衛とは(画像

日本軍師。戦国大名の黒田官兵衛は1546年12月22日に播磨国の姫路で生まれました。黒田官兵衛というのは通称で、本名は黒田孝高。出家後の黒田如水という名でも知られています。

 

黒田官兵衛は長らく豊臣秀吉の側近として仕え続け、竹中半兵衛(竹中重治)と共に秀吉の天下取りに大きく貢献。本能寺の変で織田信長が死亡した際、黒田官兵衛は秀吉に毛利輝元との和睦と明智光秀の追討を進言し、光秀の天下取りを未然に防ぐとともに秀吉の天下への道を切り開きました。

 

ただし秀吉側はあまりにも有能すぎる黒田官兵衛に対して、自らの地位を脅かしかねないと警戒の念を抱いていたと言われ、1587年には九州の豊前国で12万石を与えられるという、体の良い左遷の憂き目に遭うこととなります。秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは嫡子である黒田長政が徳川家康に多大なる貢献を果たしてしまったため、自身の天下取りの目は完全に摘まれてしまい、家康による上方・東国での領地加増の提案も辞退し、以後は政治と距離を置いた隠居生活を送ることになります。

 

1604年4月19日に京都伏見の藩邸で59歳にて死去しました。熱心なキリシタン大名であった黒田官兵衛は死の間際、ロザリオを胸に置き、自身の死骸を博多の神父のもとへ運ぶ事と家臣の殉死を禁じたのち、この世を去ったと言われています。

 

その後、本人の遺志に従い博多の宣教師たちによってキリシタン墓地近くの高台に埋葬され、息子の黒田長政は宣教師たちを労い米500石を贈りました。

メニュー

内省記事一覧