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考察
何しろ人の本性は、浮足立っている時に表面化されるわけではない。
ソクラテスは言う。
よく観察すると良い。彼が何にお金を使うか、何に対して、どういう愛を注ぐか。それによってその人の『徳』の何たるかが決まる。
例えば、ブッダの言葉の超訳として書いたのは、
こういう記事だ。 愛は愛でも、『捻じ曲がった愛』があり、育児と教育は違うのである。
それがわかるのは、日頃の行いだ。彼がどのような思想の下、人生を生きているかをよく観察しなければ、『徳』がある人とは断定されない。
『徳の高さは、人が何か特別に頑張った時に判断すべきではない。日頃の行いで判断すべきである。』
例えば最近でも、とある残虐な殺人事件があった。彼がしたことは残虐の一言。20代前後の男女を9人も殺害し、バラバラに切断してその肉を処分する方法をネットで探したというのだ。犯人の知り合いの女性が事件発覚後にインタビューに答えると、
と言った。つまり犯人は、ある場面では猟奇的な異常犯罪者だが、ある場面ではパスカルの言うように、『善人たる一面』を見せているのである。
この場合、パスカルの言う『特別に頑張った』というのは、こうした異常な優しさを他人に向けていたときだろう。実際には腹の底にねじ曲がった本性を隠し持っている。したがって、彼のことを評価するためには、その『特別に頑張った』優しさを見せたときのことだけで判断してはならない。彼が異常犯罪者で、人として最低の考え方を持っているということを踏まえてから、彼に『徳』があるかどうか、判断する必要がある。
もし、目の前に『徳』ある人物に見える、物腰柔らかそうな『とてもそういうことをする人には見えない』人がいたとしても、盲信してはならない。人を、過信してはならない。人間は皆、『欲望』というウイルスを備え持っている。パスカルは、
とも言ったが、これを『理性と欲望』、『善意と悪意』など置き換えて考えてみるとわかりやすく、確かに言われてみると人とはそういうものであるという事実に、気づくことができるはずだ。
人の善意を信じるのはいい。だが、人に『悪意や欲望がない』と思っているのであれば、過信である。その人には必ずそれがある。そして、それは自分も当然例外ではないのだ。
誰しもが『魔に刺され(差され)』、人の道を逸れ、不謹慎なことをしたり、失敗をしたりするものである。この犯人のしたことは未来永劫許されることではないが、そんな彼とて、魔に刺された哀れな人間なのだ。我々他の人間も、彼と同じ環境で生まれ育ったのなら、彼のように生きてしまった可能性は否定できないのである。
そんな中、『日頃の行い』でその『悪意や欲望』を抑えつけて奮闘し続ける人がいたとする。だとしたらそれは賞賛に値するのだ。そういう人のことを『徳ある人』と言うのである。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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