パスカル『神を感じるのは心情であって、理性ではない。信仰とは、そのようなものである。』
フランスの哲学者 パスカル(画像)
名言の意味を考えて、偉人の知恵を自分のものにしよう!
考察
『信仰』はそうだ。しかし、『神を感じる』のは『理性』でも出来る。パスカルが言っているのは、『存在する神』であり、私が言っているのは『神=真理=愛』の方である。
つまり、前者は『いる』のであって、後者は『ある』だ。例えば、私の両親が(父親は亡くなったが)通っている教会では、こういう話をしている人間がいた。
『山登りをしていて、テントを張っていた。だが、とても信じられないほどの嵐が吹いて、必死になってテントを皆で抑え、死なないように、生きて帰れるように、無我夢中で神様に助けを求めた。すると、嵐は過ぎ去り、私たちは無事に生き延びることが出来た。神様が私を救ってくださったのです。私は神様を信じるようになりました。』
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パスカルの言葉を自分のものにする
…この話は、『いる』の方だ。神様という、人だかそういう方向の存在がいて、その生まれ変わりがイエス・キリストであり、とにかくそういう、人間の力を遥かに超越した何者かがこの世に君臨し、やはりビッグバンも『光よあれ』と言って、その神の言葉がきっかけで始まり、『天と地が創造』された、ということ。
その話をしていた人の頭には、神様が『いる』のだ。別にそれはいい。人間の傲慢不遜な心が、その存在によって戒められ、謙遜な心になるのであれば、それを否定することは無い。
ただ、私は『いない』派である。だが、『ある』。その答えに、自力でたどり着いたのだ。かつて、クリスチャンであることを強要されていた、宗教嫌いのこの私が、その答えに辿り着いた。私はとても、『理性的』である。論理的にたどり着いたのだ。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』 にはこうある。
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イエスはブッダやソクラテス同様に、幻影に満ちて不確かな現世とは対照的な、究極の真理が存在すると固く信じていた。しかも、一人一人が少しでもこれに近づこうとするなら、到達できる真理である。
しかし、イエスはソクラテスとは違い、自分は論理的思考によって真理を見出した、とは主張せず、合理的な教えによって真理を伝授するつもりもない。またブッダとも異なり、長く内省的な修行を積んだ末に真理を見出したことも主張せず、瞑想という方法で真理が得られるとも考えていない。この点でイエスは他の師とは根本的に考え方が異なっている。
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言うなれば、ソクラテスは論理的思考によって真理を見出し、ブッダは深い内省(内観)によって真理を見出した。しかし、キリストは違う。従って、キリスト教とは、『いる』派であって、『ある』派ではない印象を受ける。
私の知る限り、30年クリスチャンとして教会や交わりに通い続ける、実の母親を見ていても、『イエス様』だとか『ジーザス』だとか言って、『特定の人物を崇拝している』という様な、そういう印象を受ける。しかし、私は母を、一度も『クリスチャン』だとして見たことは無い。
ヴォルテールはこう言い、
『あらゆる宗教のうちでキリスト教は、疑いもなく最も寛容を教えたはずの宗教である。しかし、現在までのところキリスト教徒は、すべての人間のうちで最も不寛容な人たちであった。』
ガンジーはこう言い、
『私にはクリスマスのお祭り騒ぎが以前からどうしても受け入れられない。それはイエスの生涯や教えに全くそぐわないように思える。』
マザー・テレサはこう言い、
『ガンジーは、キリストのことを知った時、興味を抱きました。しかし、キリスト信者たちに会って、がっかりしたそうです。』
フランスの小説家、プレヴォは言った。
『宗教は大きな河に似ている。源泉から遠ざかるにつれて、絶え間なく汚染している。』
つまり、私の母親が『クリスチャン』に見えない理由は、私の目が肥えているから、という理由と、母親が、『偉人が説いた真理』ではなく『凡人が広めた宗教』を『崇拝(信仰)』しているからである。
彼らの言葉と向き合って真剣に内省したのだが、ある聖書の超訳本の著者は、『神=愛』であると説いていた。そして私もそれに異論はなかった。だとしたら『ある』になるからだ。それなら、懐疑的な私の様な人間も、全く納得のいく話だった。『神がいるのは知らないが、愛があるのは知っている』のである。
それに、彼らの意見を総合して考えると、やはりどうしても、『いる』のではなく、『ある』の方が合点がいく印象を強く受けたのだ。『いる』なら、衝突、軋轢、対立の原因になるが、『ある』なら、この全世界、いや、宇宙も含めた森羅万象の中で、共通するのである。
私は2015年2月『エクソダス神と王』を観た時、その確信が更に強化されることとなった主人公であるモーセは、キリストよりも1300年前に生まれていた人間であり、歴史上では『神の代理人』とされているわけだが、そのモーセが、作中で『神』と出会い、そしてその子供の姿をした『神』は、こう言ったのだ。
『私は、ある。』
(─やはり私の導き出した答えは、蓋然性が高い)
しかし、この見解を『クリスチャンの母親』は本当に理解しているかどうかを考えた時、恐らくしていないだろうという結論にすぐに至った。それは、私が彼女からされてきた30年の歴史を紐解けば、すぐにわかることだったのである。
『神が心の中にある』ということを知っているのであれば、母親は、私に『強要』したり、『捏造』したり、『隠蔽』したりして、排他的になり、差別し、揶揄し、誤魔化す、という神に逆らう様な真似はしなかったはずだったからだ。
しかしパスカルの言うように、『心情(感覚)で感じる信仰とはそのようなもの』なのであれば、それもまたうなづける話である。私も母親も『神』の存在に気づいてはいるが、二人ともその実態の正確な把握をしているかどうかは怪しい。
私は、理性をもって『主』となって考え、母親はそれら一切を『主イエス』に丸投げしている。『神(という日本語が指し示すもの)』に近づいているのは、どちらなのだろうか。どちらにせよ言えるのは、信仰を持っているのは母親ということである。
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著者:一瀬雄治(Yuji ichise.)
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