私は一度忠誠を決めたら、見ているところでも見ていないところでも、断固として裏切らない性質であるが、これまでの半生、命を掛けたくなるような人間にはめったに出会わなかった。本物志向である私は、たとえ超絶的な影響力のある“四聖”であろうと、やはり話したこともないし、直接の自分とは無関係であるため、忠誠を誓う(信者になる)ということには、まず間違いなくならなかった。だが、人間としてその知性には、とても尊敬している。その、尊敬している”四聖”にも忠誠を誓えないのだから、私がそれを誓える人間は、ごくごくわずかな『本物』なのである。
ましてやその他の『ニセモノ』など、話にもならない。私がこれほどの本物志向になった原因は、家族との関係が深く関係しているが、ここでは割愛する。それに私は、命を懸けるほどの絆で結ばれる他人を、私はあまり見たことがない。血のつながりがあり、人生の艱難辛苦を共にし、決意した家族同士ならまだしも、切ろうと思えばいつでも切れる他人同士の絆で、そこまでの関係で結ばれることは、ごくごく稀である。大体は自分や自分の家族の利益を一番に考えて、後のことは二番、あるいはそれ以下の存在である。
それはなぜだろうか。私の周りにも『エセ家族』や、『エセファミリー』はたくさんいる。だが文字通りそれは、『似非(エセ:似ているが本物ではない)』なのである。事情により一人顔を見せなくなっても、手をさしのばさない。一人いなくなることで自分側の都合が悪くなれば、裏切り者扱いにする。そのくせ自分達の仲は家族同然だと言い張る。こういう人間をたくさん見てきて私は、ある種の違和感を常に覚えていた。私は考えた。人を批判してばかりいては仕方がない。どうしたら本当の絆で結ばれる人間関係を作れるのだろうか。なぜ私は、命を懸けられる人間関係に、出会うことが少なかったのか。
そう、私の周りに『エセ』しかいないのは、何を隠そう、この私が、『ニセモノ』だからなのである。
もし私が『本物』の人間ならば、私の周りには、家族の絆を超えた奇跡の人間関係で、溢れているはずだからだ。『類は友を呼ぶ』。軽薄で能天気な人生を送っているときには、同じ周波数の輩が周りにいた。だが、真剣に人生を葛藤しているときには、そういう連中は少しも私に接近できず、人生の賢者や、恩師と仰げるだけの模範や、本が周りに在った。もし、自分の人生に『本物』の人間関係がいないなら、この事実から目を逸らしてはならない。身の回りで起きている全ての原因は、全て自分という『鏡』が映している結果である。
『……わかった首は…やるよ……ただし身代わりの……このおれの命一つで!!勘弁して貰いてぇ……!!!……まだたいして名のある首とは言えねぇが……!!──やがて世界一の剣豪になる男の首と思えば取って不足はねぇ筈だ!!!
ルフィは海賊王になる男だ!!!』
一流には、一流が連鎖する。本物には、本物が連鎖する。『似非』の連鎖で虚しくなければ、それを続ければいい。だが『本物』に生きる人は、理解っている。いくら波乱万丈で大変でも、『本物』の人生は、『似非』の人生と比べたとき、まるで比にならないことを。命を懸けるだけの価値がある、人生の生き方だということを。
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。