名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
そうでなければ、そこにある思索は、同調、追従、模倣、であり、他の影響に支配されているだけで、そこに哲学はないのだ。『哲学』というのは、『俺の哲学』などとして、『流儀』の意味も含まれているわけだが、だとしたら、同調、追従、模倣であれば、そこに哲学はない。あるのは無意識のうちに他の要素に影響された幻想だけである。
『誤解によって生じた幻想』ということは、もちろん外部要因だけが原因ということではないが、人間というものは、往々にして何らかの外部要因に流されて、そのまま心を支配されることがある。精神未熟な私の幼少時代を思い出してもそうだ。私は例えば、アニメなどの映画を今、見返すと、かつて、激しい音楽が鳴るシーンが、その音楽と共に、幼少時代の私の脳裏に鮮烈に焼き付いたのを思い出すことがある。
例えば、『天空の城ラピュタ』では、『龍の巣』が出現するシーン。『風の谷のナウシカ』では、オウムがユパを襲って森から出現するシーン。精神未熟なあの頃は、そうした衝撃的な音楽と映像を見ると、そっくりそのままそれに心を支配されて、動けなくなっていたのを思い出すのだ。しかし、今では当然そんなことにはならない。自我が発達していて、その物語が現実のものではないということをハッキリと認識していて、そこに意図的に仕組まれた『演出』の要素があることを、むしろ楽しむようになったからだ。まるで『洗脳』の様なイメージで、他の要素に自分の心を支配されていたあの頃。純粋無垢な真っ白い色は、それだけ、他の要素たる色に触れた時、それに染まるのも早いのである。
『誤解によって生じた幻想』というイメージはそういうことだ。(あれは幻想だった)という理路整然とした、論理的な意志。この確固たる意志という真珠の光を手に、自分の心の中にある暗黒の部分に乗り込む。そこで、不透明だった部分をその光で照らすことで、(やはり幻想だったか)として、その意志を更に確固たるものにしていく。
しかし、それが出来る人はどれだけいるだろうか。まず、私の母親は出来ないだろう。何しろ、その『幻想(曖昧なもの)』をあえて幻想にしておくことで、人生を生きているのだから。『イエス様』として、イエス・キリストを自分の主として。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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