名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
『ホーム』に甘んじ、『アウェイ』に身を置くことが出来ない人間は、大勢いる。というか、ほとんどがそういう人間である。ほとんどが、自分の身の安全を確保しようと躍起になり、自分にとっての『安住の地』にしがみつく。だがそこで、対立が生まれる。
衝突、軋轢、確執、暴動、戦争、
しかしそれがわかっていながらも、自分にとっての安住の地にしがみつく様はまるで、『依存症』である。その『しがみつき』が、混沌の要因となっているというのに、それを隠蔽し、自分の人生と思想を棚に上げ、相手の思想を棚から降ろして、揶揄して見下す。その姿は依存症そのものである。自分本位そのものである。
では、その対立するエネルギーの間に入る人間は、どういう代償を払うことになるだろうか。エゴとエゴがぶつかり合い、我こそはと、自分の意見を正当化する人間と人間の間に生まれる渦。そこはまるで、地獄の業火が燃え上がる場所であり、なおかつそれを手当てしてくれる者がいないのだ。皆、どっちかに偏っていて、間に手を差し伸べない。安住の地から静観し、自分の身の保身を考えた人間の目は、腐っている。
私もかつて、クリスチャンになることを親から強要され続けた。では問題だ。人間は、クリスチャンになることを義務付けられているのだろうか。この問題の答えは、一つではない。この日本では特に、きっと答えを曖昧にすることを選択する人が多いだろう。しかし私は、そのどちらかを選択しなければならなかった。わかっていたのは、
クリスチャンにならなければ、この家の子供ではない
という空気が完全に蔓延していたこと。それはつまり、親との絆が崩れ落ちることを意味していたしかし、私の心はクリスチャンになることを求めていなかった。(信仰とは、そもそも人の心に救いの手を差し出す存在ではないのか。)強要される信仰、断固として揺るがない親、知らん顔をしている他人、その他の事情、宗教を抱えた人間の存在、10代の私の頭はショートし、私は、思考放棄をするという選択肢を選んだ。
否定もしない。だが、信仰もしない。私が今の中立的な立場に至るまでに通った道のりは、波乱を極めたものだった。つまり私の意見が本当なら、今私は、『波乱の道を歩いた人間だからこそ選択出来た道』を歩いているのだ。以前の私では、到底歩けなかった道を歩いているという事になるのである。
かつて、そんな親が(死ねばすべてが終わる)と思った時期があった。だがそれは、偏っていたのだ。ダイバーシティ(多様性)を認められずに、自分とは異質なものの存在を拒み、相手の消滅を願うことは、偏っている。それは人として在るべき姿ではない。人は、どちらかに(安住の地に)偏った方が、『楽』である。だがその『楽な道』が、『楽しい道』に繋がっているかどうかは、わからない。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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