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考察
親鸞は言った。
その問いにただただ面喰った弟子の唯円に、親鸞はこう続けた。
『そなたに千人殺す<業縁(ごうえん)>というものが備わっていないためなのだよ。そなたが人を殺せぬのは決してそなたが善人で心優しい人間だからではない。いいかね、自分でこうしようと決意しても、人間は決して思うがままに行動することなど出来ないのだ。それはたまたまそなたに人を殺さねばならない<業縁>というものがないから殺せないだけなのだ。』
人間は、人を殺そうと思ってもなかなか殺せない。それと全く同じように、自分が人を殺したいと思った時も、その高ぶった自分の気持ちを容易に鎮めることは出来ない。この空海と親鸞の言葉を総合して考えると、この話は階層がグッと深くなる。
マキャベリは、
と言い、あるいは、聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。
『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。
空海の言うように、確かに『善行』も『悪行』も、それをやるとき、それを(やろう)と思う意志があって初めて、それを遂行する。だが、『魔が刺す(差す)』ということがあったり、親鸞の言うように『抑えられない衝動』に突き動かされることもあるわけで、それは『意志』と呼べるものとは言えなさそうだ。『意志』は『聖性』の方である可能性が極めて高いのである。しかしどちらにせよ空海の言う通りだ。やるときは、それを(やろう)と思って、やるのである。
では例えば、カッとなって人を殺してしまう様なケースを考えてみる。あれも、(やろう)と思ってやるのだ。それは間違いない。だが、後で振り返って後悔したりすることが多く、だとしたらそれは一時的な衝動であり、『魔が刺した』のである。これを考えた時、確かに人は(やろう)と思うから『やる』わけで、そんなことは当たり前のことだ。だが、その当たり前のことを、『後悔する』ということは、いささか、何かそこに『誤解』が生じている可能性が高い。つまり、『聖性がやろうと思って、やる』ことは良いのだが、『魔性にやろうと思わせて、やる』ことは、後悔する結果を生む。魔性を劣位にし、聖性を優位にすることを心掛けたい。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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