名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
ホイットマンは言う。
それがすべてを物語っている。私は中学生の頃、エアコンをガンガンに効かせ、ハマっている漫画を読みながら、勉強をさぼり、好きな音楽をかけ、一日中寝転がる日々を過ごしていた。夜は電気をつけっぱなしにし、音楽はかけっぱなしにし、12時間寝ること日常茶飯事だった。そうすることで何かこう、『自由』になれたような、そんな気分に浸っていたのだ。何をやっても全力を出せなかった。やったところでどうなるのかも、よくわからなかった。実際には、家庭内に抱えていた信仰の問題が、深い部分に根付いていたのである。そのどうにもならない問題を直視することを避けるように、時間を捻じ曲げ、現実から逃避していたのかもしれない。
ある日から学校をさぼり始めるようになった。家出もしたし、真冬に野宿もした。最初は楽しかった。
(これは自由だよなあ)
そんな気がしていた。しかし、夏休みに同級生が楽しそうに計画を立てているのを見て、『毎日が夏休み』だった私は、何か違和感を覚えた気がした。全然夏休みが面白くない。その時私は、何か大きな間違いをしているような、歯車が狂ってしまったような、そんな強い違和感を覚えたのだ。しかし、考えることを放棄している私には、その先の答えを見つけることが出来なかった。
ある日、私はその延長線上で、類稀なる地の果てに堕ちた。私は悟った。
(私は最初から、自由だったのだ。)
ということを。『自由』とは、義務を放棄し、権利だけを主張することではなかった。『自由』とは、現実を直視することをやめ、目を逸らし、自分がすべてのルールを決めるというパラレルワールドに浸ることではなかった。
モンテスキューがこう言い、
福沢諭吉がこう言ったように、
『自由』とは、欲望に身を任せ、それに支配されることではなかった。私は最初から『自由』だったのだ。それを、『自由』を奪われて、ようやく気づけたのだ。人の意見は人の意見だ。私の意見は私の意見だ。この世にいる人間の分だけ、『自由』はある。この世にいる人間の分だけ、『人生』がある。あの頃の私は、自分の人生だけを棚に上げ、自分の人生を『放棄』していたのである。
私はパンを食べた。もちろんパンなど、ずっと前から食べていた。しかしそれまでは、そのパンを作った人のことや、買うために働いた父親のことや、
料理する為に買った母親のことは、何も考えていなかった。
そのパンを買うためにどれだけのドラマがあったことだろうか。パンを買って食べさせる前に、赤ん坊だった私を抱いて、両親はどんな話をしただろうか。
(この子にはひもじい思いをさせないようにしよう。)
そう誓い合ったに違いない。私は自由にパンを食べられない状況に陥って初めて、自分が『自由』だったことに気が付いたのだ。パンを投げつけて罵倒を浴びせることもできるし、パンを無償で食べさせてもらうことに感謝することも出来た。
私は太陽の、暖かさを知らなかった。
私は生命の、尊さを知らなかった。
当たり前だと思っていたのだ。
太陽も、生命も、パンも、自由も。
しかし、当たり前ではなかった。
そして私は知ったのだ。
人生の大切さを。
一度しかない人生の、尊さを。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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