名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
しかし、私がたどり着いたのは、『真理・愛・神』だった。これは、自力でたどり着いた。だから、『発見した』という表現の方がしっくりくる。かつて、29年間もの間、両親からクリスチャンであることを強要され、一時は親ごと宗教を呪い、死んで消えてなくなればいい、と本気で念じた時期がある、この私が言っているのだ。説得力が違う。しかしだからこそ、サン・テグジュペリのこの言葉はしっかりと内省しなければならない。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』 にはこうある。
イエスはブッダやソクラテス同様に、幻影に満ちて不確かな現世とは対照的な、究極の真理が存在すると固く信じていた。しかも、一人一人が少しでもこれに近づこうとするなら、到達できる真理である。しかし、イエスはソクラテスとは違い、自分は論理的思考によって真理を見出した、とは主張せず、合理的な教えによって真理を伝授するつもりもない。またブッダとも異なり、長く内省的な修行を積んだ末に真理を見出したことも主張せず、瞑想という方法で真理が得られるとも考えていない。この点でイエスは他の師とは根本的に考え方が異なっている。
言うなれば、ソクラテスは論理的思考によって真理を見出し、ブッダは深い内省(内観)によって真理を見出した。キリストは違うが、ブッダやソクラテス同様に、幻影に満ちて不確かな現世とは対照的な、究極の真理が存在すると固く信じていた、ということは、やはり印象として、『最初からそこに在った』のであり、目の肥えた賢者たちが、知性を突き詰めた場所に必ず『ある』わけで、そして彼らの意見が一致するのであれば、その蓋然性は高い。
だが、ここでサン・テグジュペリの考え方で再考してみると、例えば、ニーチェのこういう言葉が頭をよぎることになる。
『論理は完全な虚構の見本である。現実の中には論理などは存在せず、現実はまったく別の複雑極まりないものである。我々は実際の出来事を思考においていわば簡略化装置で濾過するように、この虚構を図式化することによって記号化し論理的プロセスとして伝達および認識可能なものとする。』
だとすると、『真理』すらも、全て『人為的な創造』であるというような、いかにもニーチェらしい、ニヒリズムという発想が、更に頭をよぎるわけだが、ここまで考えたら、別にどうでもよくなってきた。『発見』でも『創造』でも。そんなことは永久にわからないのだから。わからないことに時間を費やす暇があれば、いずれ生まれる子供の教育と、部下の教育についてもっと時間を注ぎたい。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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