名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
しかし、旅行案内書を幾冊も読んで、ある土地に精通したつもりでも、実際にその土地に行ってみると、全く違う見解を得られることは、よくあることである。但し、知識をたくさん入れておくことにこしたことはない。入れないでその土地の要所を見た人と、入れてその土地をくまなく見た人とでは、やはり『その土地に精通している』称号を得られるのは、後者の方である。
私自身、日本の世界遺産を全て観て回ったが、それに精通している、という称号は相応しくない。私はあまり、世界遺産の取材をする時、『後で調べることが簡単なもの』の情報は、一切入れないことにしている。それだけの歴史がある建造物や自然ならば、至る所にその詳細が書かれているわけで、なんならパンフレットは必ず持ち帰っていて、今も保管してある。
それよりも重要なのは、実際にこの目で見て、身体で体験することだと思っていて、だからそういう私だからこそ、『読書で生涯をすごした人は、ある土地に精通した人である』という発想は、首をかしげざるを得ないわけで、冒頭にそうして書いたわけである。やはり、文字で見るのと実際の体験とでは、まるで次元が違うのだ。
しかし、例えば、『四聖』に数えられる、
孔子、
ブッダ、
キリスト、
彼らの教え、つまり論語、ソクラテスの弁明、仏典、聖書といったものは、見るのと見ないのとでは、明らかな差が出て来るわけだ。彼らの罪の定義とは、上から順に、『利己、無知、執着、罪』である。キリストの言う『罪』とは、紐解くとラテン語の『的を外す』という言葉に辿り着く。キリスト教の7つの大罪とは、
が挙げられるわけだが、それを見てもわかるように、それらは『欲望を間違った方向に向けた結果』であり、キリストの言う『罪』とはつまり、そういうことなのである。いや、利己も無知も執着も全てそうだ。間違った感情の持っていき方なのだ。
無知でいることは怠惰。利己に走ることは傲慢。執着はこれらすべての欲望が暴走するとき、その根幹にある人間の感情だ。やはり、これを押さえずして『人間』を語るには、青い。そして、彼ら人間の四聖から、その教えの本質を読み解き、自分のものにすることは、まるで『人間マスター』の称号が相応しいかのような、そういう高潔さが漂う。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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