名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
ソクラテスは言う。
ソクラテスが言う通り、人は『贅沢』をしてはならないことが、まず前提の倫理として、根底においてあるものだ。しかし例えば、『今日、家族のみんなで食卓を囲み、暖房の効いた部屋で温かい鍋を食べた。』それは、彼らにとっては、日常のとある小さな幸せ。つまり、ソクラテスの言う『満足』ということになる。
実に素晴らしい。だが、『下の写真』を見てどう思うかだ。
さあ、話がきな臭くなってきた。先ほどまで『小さな幸せで満足』していた家庭が、単なる『先進国の平和ボケした馬鹿一家』という見解がチラついてきたのだ。
(それが『満足』だって?ふざけるなよ。俺たちからすればよっぽどの『贅沢』だぜ。)
では、ここまで考えた上でもう一度庄野潤三の言葉を考えてみよう。確かに、あの一家は途上国の人からすれば、『単なる贅沢』になるのかもしれない。 しかし、そうは言っても我々はこの国で生まれ、この環境で生きて、周りからすればむしろ、裕福な方ではないのだ。そのごく普通の一家が、とある休みの日に皆で食卓を囲んで鍋を食べて笑った。それが、いけないことなのだろうか。
重要なのは、『視野』だ。自分たちはソクラテスの言う通り、『贅沢』をしないように努めていた。しかし、それですらある人から見れば『贅沢』にしか見えなかった。
分析心理学の創始者、ユングは言う。
この世には様々な環境の差異がある。逆に、その全ての人から見た時に、『贅沢ではない』と言われる生活は何だろうか。こういう言葉がある。
『刑務所の鉄格子の間から、二人の男が外を見た。一人は泥を眺め、一人は星を眺めた。』
刑務所の中ですら、そこが『特等席』だと思う人がいる。それに、途上国だからといって、彼らが『贅沢だ』と思う瞬間が無いと、決めつけてしまうのもおかしい。彼らがある日、とびきり上等な肉にありつくことができた。彼らはそれについて、『なんて贅沢なんだ』と思うに違いない。そう考えると、何が『満足』で何が『贅沢』かは十人十色だが、ソクラテスの言う様に、『自分にとって』、贅沢をしないことがまず、人として素晴らしい心の在り方なのである。見るべきなのは以下の黄金律だ。
だが、それはある人から見れば、『贅沢だ』と思われることがあるだろう。しかし、庄野潤三曰く、『たまには贅沢が必要』なのだ。自分の器が小さく、人に優しくするためにそれが必要だから。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
当サイトにある500人の偉人の8000の名言は、ぎゅっと集約して『38』にまとめられます。人間がいる以上未来永劫廃れることのないこの情報を、決してお見逃しなく。
『38の黄金律』へ
Pickup名言