名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
ここで考えるのは上級編だ。初級編なら、この言葉を『問題解決のカギ』として受け取るだけでいい。自分と相手は違う考え方を持っているのだから、自分の考えを無理に相手に押し付けてはならない、それをするからこそ、人間関係が上手くいかないんだ、と考えることである。そう考えさせてくれるのが、初級編の解釈だ。
だが、ここで考えたいのは、『その様な多様性があっていいのか?』というテーマについてだ。例えば、異宗教同士の争いだ。例えば、というか、もうそれが本題だ。あれはそれぞれが、『自分と相手は違う考え方を持っているのだから自分の考えを無理に相手に押し付けてはならない、』と考えていれば、起きるはずが無かった争いだった。
しかし、多様性を認めなければ、人間は一つの国家、言語、宗教、文化に偏ることになり、他の道に逸れることが許されず、自由を奪われることになる。そこにある弊害は大きく、異質同士が切磋琢磨して生まれる化学反応もなくなる。
と言うのなら、異なった考えかたによって起きる全ての争いは、あっていいということになる。何しろ、その争いを起こさない為には、考え方を一つに統一する必要があるのだ。しかしそれでは多様性を失う。一体どうすればいいのか。
私はとある一つの答えに辿り着いた。それは、『照準を自分にも相手にも絞らない』ということである。『真理(愛、神)』に照準を当てるのだ。この言葉に抵抗があるのなら、使う必要はない。こんな言葉に意味などあるわけがない。これは単なる日本語だ。
『他人のものさし』、『自分のものさし』、それそれ寸法が違う。そこまでは相田みつをの言う通りだ。だが、最も重要なのは、『では、どちらのものさしで決めればいいのか?』ということであり、それを『真理(愛、神)』に決めさせることによって、この問題は解決するのである。
例えば、ジャンケンをするとき、
とかいうわけのわからないルールを持っている人がいたとき、
として、先に『がっちりと固定された確約』を作ることで、その後の勝負の結果のトラブルを避けることが出来る。これは不思議で、自分は『パーがチョキより弱い』というものさしを持っていて、相手は『パーがチョキより強い』というものさしを持っていて、相田みつをは、『そうなってるんだなあ』と言うが、その後の話が肝心で、『真理や愛』のように、この世にがっちりとして固定されている不変的な価値のようなものがあれば、そこに照準を合わせることによって、自分と相手の意見が違っていても、その『第三者的立場』の意見を基準にすれば、滞りは起こらない。
では、それを『異宗教同士の争い』に当てはめて考えるとなるとどうなるだろうか。キリスト教でもない。イスラム教でもない。それらの教えの絶対的根幹にある『真理(愛、神)』に照準を当てることで、この問題は解決するはずである。『争い』は『愛』とは正反対の方向であり、aそれを行う時点で、すでに『愛(神、真理)』に逆らう結果になっている。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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