名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
ではタモリは、明石家さんまの様な人間を『面白くない』と思っているだろうか。それから、笑福亭鶴瓶はどうだ。彼らの印象は間違いなく『人見知り』ということにはならない。しかし、タモリの言葉というのは、いつだって奥が深い。奥が深すぎて、凡人には理解できないところがある。だから、きちんと説明する人間が必要だ。
以前『笑っていいとも!』でタモリが大喜利として人の名前を書くときに『渋沢栄一』と書いたところ、さまぁ~ずの三村が、
と例のツッコミを入れ、誰一人渋沢栄一がどんな人物であるかに触れないまま番組が進行されていったことがあった。会場にいる(おそらく)誰一人として、それが誰なのだか理解できなかった。日本資本主義の父、渋沢栄一のことを知らなかったのだ。
しかし、タモリはその番組が『笑っていいとも!』であることを認識している為、そのまま渋沢栄一がどんな人物であるかを説明しないまま、流れに身を任せ、MCに進行させたのである。この様にして、タモリの発言にはいちいち深みがある。それはタモリが、早稲田大学に入学したという学歴一つ考えても、浮き彫りになる事実である。
では一体、この言葉はどういう意味だろうか。まずは単純に、タモリがそういう人間だから、同じような人間を正当化させるために、こう発言した、ということが挙げられるだろう。タモリはよくそういうことをする。自分の意志と哲学を主張して、正当化し、違う意見の人間から反感を買うことがある。また、もう一つの理由は、人見知りの人間と、そうじゃない人間をたくさんその目で見てきて、人見知りじゃなかった人間の、軽薄さを思い知ったことも挙げられるだろう。
やはり、熟成した肉やワインが一味もふた味も違う様に、相手がどういう人間か、場がどういう状況なのかを熟考することで、その場、その状況に合った適切な調和が出来るというものだ。その時間を設けられない人間は、往々にして自己中心的であり、調和を乱す。自分一人だけが突出すればそれでいいと思っている人間は、『延長自我』によって自分の我を出し、それを強要するところがあって、それが受け入れられないとヒステリックになるから、自分勝手だ。
やはり、『面白い』と感じるには『相手』がいるわけで、その『相手』のことを考えないワガママな人間は、人間的に面白い存在ではない。また、松本人志や北野武は、自身のことを『人見知り』だと自負しているわけだが、彼らの芸風を一見すると、『場なんて関係ない』という、典型の攻撃型のように見えるが、実はそうではない。きちんと『場』を熟考し、そして適切なワードを捻出して、笑いを生み出している。ただ、頭の回転が尋常ではないだけなのだ。松本人志などはまだまだ元気なので、その即興性は今でも十分確認することができる。
例えば、『笑っていいとも!』の最終回、生放送という状況の中で、しかも、先輩である明石家さんまのトーク中に乱入する、というシーンは、ハプニングそのものだった。だが、その何が起きるかわからない不安定な『場』の中で、自分が言おうと思っていたトークを、相方の浜田に遮られ、言うタイミングを失ってしまったというのに、頭が真っ白になるどころか、浜田の前でおどけるさんまに対し、
とツッコミを入れたことは、『場』を熟考し、理解していない人間には出来なかった。そのツッコミによって、会場は一気に盛り上がった。まるで、『嵌めて欲しかったワンピースを松ちゃんが嵌めてくれた』とでも言うかのように、皆の心が、安堵と歓喜に包まれたのである。
人見知りをする人間は、常に『正解が何であるか』を頭で考えている人間だ。場の調和や、適切なツッコミ、放送事故にならないように、客を引かせることのないように、何が正解であるかを熟考するような人間だ。そしてその熟考している最中、周りが見た時に黙り込んでいるから、人見知りに見えるわけで、実際は、賢明なのである。賢明な人間は、『嵌めるべきワンピース』が何かを見極めることが出来る。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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