名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
印象管理とは、文字通り、自分の印象を管理することを言う。例えば人に褒められたら、その褒めた相手の期待を裏切らないように、その人が『残念だ』と思ってしまう様な言動を取らないように注意する。
その時点でもうその人は『印象管理』に支配され、その期待している人物像になりきることを、暗黙のうちに『コミットメント(約束)』するようになる。これだけで、デニス・ウェイトリーの言う通りだ。この知識を『どういう方向に』使うかは、その人物の心一つにかかっている。
『人は誰でもそう見られたいと思っている人物像になっていくものだ。』
先日、私の『声』を録音して聞く機会があった。10代の頃にわかっていたことだったが、自分の声というものは自分で認識しているものとはずいぶん違っているものである。日本文芸社『脳とカラダの不思議』にはこうある。
自分の生の声は二通りの経路で脳に伝わる
録音した自分の声を聴くと、ほとんどの人が違和感を覚え『わたしって、こんな声なの』とちょっとショックを受けるものだ。いったい、どちらが本当の自分の声なのだろう?(中略)自分が発する声を聴くとき、空気振動として耳に入ってくる音以外に、自分の口の奥にある声帯を震わせ、骨や肉を振動させて蝸牛~大脳へと伝わる音がある。例えば、両耳をふさいでも自分の声が聞こえるのは、そのためである。
つまり、いつも聞いている自分の生の声は、二通りの経路で大脳に届いているため、録音した声を耳から入る空気振動だけで認識する場合とは違って聞こえるというわけだ。録音した自分の声と、人が聞いているあなたの声は同じということになる。
これがそのからくりである。しかし、私はずいぶん久しぶりに自分の声を聴いたのだ。20年は経ったのかもしれない。そして相変わらずその声の質感に、腹が立ったものである。つまり、デニス・ウェイトリーの言う通り、私のその声は『人にこう見られたい』と思っているということが浮き彫りになっていた。なんとも甘えたような、ぬめぬめしたような、気持ちの悪い喋り方をしているのだ。嫌気がさしたものである。
本にもあるように、 私のように『ちょっとショックを受ける』人は多い。しかしそんな中、別にショックを受けないという人もいる。その違いは一体何だろうか。そこには、デニス・ウェイトリーの言う言葉の意味が、隠されているようである。そういう人は、あまり人からどう見られるかということを気にしてないのだ。あるいは、自意識過剰のどちらかだ。つまり、元々自分は、声が何であろうと人から気に入られると思っていた。そういう天賦の才があると思っていたのだ。
だが私の場合、正直言ってあの『人を意識した甘ったるい声』を聴いたら、体中に虫唾が走った。私は『人からどう見られるか』ということを意識しているというよりは、『そんな自分で在りたくない』という強い意志があるのだ。自分の口調が『自分から逸れている』のを客観的に見たとき、そんな自分を恥じたものである。
だが、今度は10年間連れ添った部下との会話を録音で聞いてみた。すると、私の声は、私がイメージしている通りの強くてたくましい声になっていた。私が本当に振舞いたいのはこういう態度だった。私は不特定多数の人に自分の本性を隠す傾向があって、その隠しているときの自分はよく人から誤解されることが多かったのだが、その謎が一つ、解けた気がしたのである。
私は、私が振舞いたい態度を取っていなかった。『気を使った』という事実があるにしても、その選択肢を選んだのは自分だ。自分ではない態度を取っておきながら、相手に誤解されると腹を立てる。これではまるで、子供同然である。今回の件とデニス・ウェイトリーの言葉を内省して、そんな次の境地を見させてもらった。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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