名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
ドストエフスキーはこうも言う。
これらの言葉を合わせて考えた時、まず初めに『人間ではない人』、あるいは『人間とは呼べない人』、もしくは『取るに足らない人』、『人間としてまだ未熟な人』という人がいることが想像出来る。
その『未熟、未完成、足りない人』に対して、『ある要素を付け加える』ことで、『良い形になる』というのだ。『凸凹』の形を想像したい。両方とも未熟だ。だが、二つが重ねれば、一つの完成形となる。こう考えると、もし、今の自分が『不足している』と感じても、あるいは『もう生きてる価値はない』と思っても、まだまだ手段はあるということが見えて来るはずだ。諦めるのはまだ早い。
『人間的なあつかいをすれば、神の似姿などとうの昔に消えてしまったような人をさえ、人間にすることができる。』
似姿とは、『似せて作った絵や偶像』ということである。つまり、ここで出ているのは『神が自分に似せて作った人間』ということで、これは聖書の言葉である。
創世記1章26節にはこうある。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
人間はこのようにして、本来であれば神のように公明正大で、真理を愛することができるものだと考えることができる。しかし、人間には聖性と魔性の両面がある。
聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。神の似姿などとうの昔に消えてしまったような人とは、魔性に支配された人間のことだ。しかしそういう人であっても『人間的な扱い』をすれば、人間にすることがdけいるということである。
それは本当に一理あることである。例えば、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンは、無実の罪で刑務所に入れられ、心が歪んでいた。出所後、世話になった教会から銀の食器を盗んで逃げようと思ったジャン・バルジャンは、その姿を牧師に見られてしまった。しかし、牧師はこう言ったのだ。
そうして彼に、もう一つの銀の食器も差し出したのである。そこにあったのは『愛』だった。そして愛とは、相手の事情の細部の細部までを受け入れる、広い心のこと。
何か理由があるに違いない。きっと複雑な事情だ。人間は生まれたときはみんな清廉潔白。事情こそが人間を罪に走らせるのだ。人を憎まず行いを憎む。そして、その行いを生み出してしまった事情にこそ、私は厳しい目を向けたい。
そういう牧師の広い心と愛が、ジャン・バルジャンの荒んだ心に光を当てたのである。そしてジャン・バルジャンは牧師になった。彼は牧師の愛を受け、人間的な扱いを受けたことにより、自分が人間だったことを思い出したのである。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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