名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
この淡谷のり子は、誰かに常にモノマネされていて、正直なところ、馬鹿にしていた感想があったので、言葉をスルーしようと思った。だが、私の事と照らし合わせて考えてみたところ、(スルーするべきではない)と思い、向き合って内省するに至った。私もかつて、自分から逃げていた時期があった。自分というのは、自分の置かれている環境、強いられている家族、宗教のことである。
人間関係、義務教育、食事、運動、テレビ番組、何もかもである。
(なぜ、それをしなければならないのか?)
心がそれを欲していない。それなのに、強要される毎日。強制される、片寄った思想と生活。当時の私には、生きがいを感じるものなどなかった。いや、本当は生きがいを感じている時間はあった。それが、心底から共鳴するクリエイティブと触れ合う時間である。映画、ゲーム、アニメ、マンガ、しかし、それらは得てして私以外の周りの人間の趣味でもあったので、別に自分とは深いかかわりがないものだと思っていたのである。
私は、自分の事をよく理解していなかった。自分が何者かもよく把握していなかった。それなのに生きがいを感じることが出来るわけなどないだろう。そう考えると、私が生きがいを感じるようになったのは、つい最近の事である。このブログを見ればわかるが、私にとって文章を書くこと、あるいは四聖と向き合うことは極めて普通だが、それが『異常だ』と思うぐらい、出来ない人もいるのである。
だが私は、この作業にストレスを感じていない。つまり、『生きがいを感じている』のである。よって、私の生きがいは、他の人が『生きがいではないし、苦痛だ』と感じるが、私にとって『それは苦痛ではない』と感じることだということだと、判明するのである。
色々と、挑戦しなければわからなかった。色々と、蓄積しなければ気づけなかった。色々と、失わなければ見えなかった。自分の人生から逃げていたら決して、自分の生きがいは見つからないだろう。そのことを私はひどく、痛感するのである。
私の部下は、この言葉を重く受け止めるべき人間である。入社して10年、入社する前を入れたら小学生の頃からの知り合いなわけだが、彼が吃音症だと発覚したのは当社に入社してからだ。彼は入社して2年ほど経ったとき、こう言った。
…なんという愚かな発言だろうか。私はそれを聞いた時、彼の周りの時空が歪んだように見えた。私はこの後、この彼とどう向き合っていけばいいのだろうか。その道のりの険しさが見えた私が生み出した錯覚だっただろう。
10年の月日の中で、将来やりたいこと、自分がどんな人間になりたいか、給料はいくらもらいたいか等の質問は腐るほどしたが、 彼はその全ての質問に明確に答えを出さないまま今に至っている。
『自分から逃げれば逃げるほど、生き甲斐も遠ざかる。』
まるで、心にぽっかりと穴が空いているかのように見える彼の人生を見ていると、この言葉がスッと腑に落ちてしまうのだ。彼の人生が本当に躍動するとき、それはもしかしたら彼の家族が全員死んだ時なのかもしれない。彼は確かに兄を事故で亡くしたが、妹もいるし、両親もまだ生きている。
兄を事故でなくしたということを盾に、いつまでも現実逃避をするということは許されないのだ。人は生きていかなければならず、そして一人で生きているわけではない。いずれ自分が家族を儲け、両親になり、子供を教育していかなければならない。
電力王、松永安左エ門は言った。
生きているだけで責任があるのだ。そのことを彼が理解することができるのは、自分が今どれだけの人間に支えられているかを本当に理解するとき。つまり、家族が全員この世からいなくなるときかもしれない。我々はたった一度の人生を生きているのだ。そのことを肝に銘じることができれば、この人生を真剣に生きざるを得ない。
ドイツの小説家、ジャン・パウルは言った。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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