名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
ニーチェがこう言う意味が分かるだろうか。
これも『脱皮』の話である。幼虫がサナギに脱皮し、サナギが羽化して蝶になる。言うなればそれは、『更生』。更生とは、『更に生きる』と書く。蝶はそこから、新たな人(蝶)生を生きていくことになる。いつまでも脱皮、羽化しない者は、蝶にはなれない。蝶になるためには必ず脱皮、羽化をしなければならない。それが出来るのはニーチェ曰く、孤独の状況である。
私もそれについては全くの同感で、そこで行われる『内省』、そして『内観』というものは、正直、全ての人間が通った方が良い、通るべき道である。学校も色々と学ぶことは多いが、実際にはここから得られる教訓の足元にも及ばない。
私の部下には、かれこれ10年以上の間、これが出来ずに足踏みしている人間が居る。例えば、10年経った今、この5か月間で遅刻した回数は、20回を超えている。もちろん、そのたびに制裁が加算される。アメもムチも、人の想像以上にやった。
例えばこの読者の中に、『日本の世界遺産を一年ですべて見て回った』人はいるだろうか。私は彼とそれをした。富士登山もしたし、お風呂に入って食事もして、たくさんの話をしてきた。
『四聖』に数えられる、孔子、ソクラテス、ブッダ、キリスト、世の偉人たちの考え方を取り入れ、様々な話をしてきた。
だが、彼は自分を変えることはできない。なぜならバーナード・ショーがこう言ったように、
ということなのである。
同じ場所でいつまでも足踏みし、やるべきことを先延ばしにし、楽な方へ楽な方へひた進む彼からすると、彼は被害者であり、自分の人生ではそういう行為をする特権が与えられていると思っている。
彼がそうまでして被害者意識に浸る理由はもちろんある。彼からすると、20数年前に事故で亡くした実兄のことが、未だに呪いの様に自分の人生を蝕み続けているというのだ。
だが、本当にそれを一生言っていくつもりなのか。本当に死んだ兄は、被害者ヅラして生きていくことを遺族に求めているのか。
深化の時期を経て、生命は一回り立派な存在に昇華する。悔いの無い人生を生きなければならない。無論それは自分の人生だけではなく、生まれて来る自分の子孫の人生の為にも、その絶対的土台である自分が、羽化、脱皮しなければならないのだ。
ルソーは言った。
呼吸しているだけでは、それは『生息』である。
オスカー・ワイルドは言った。
ただ生息し、存在しているだけでは、実際の意味での『存在』に該当されることはない。もちろん、植物状態になって身動きが取れなくなった病人は別だ。そういう人なら特例が認められることになる。だが、そうではない五体満足の恵まれた一生を送るすべての人間は、この一生で『命を使い切る』ことを求められている。決して求められているのは『命の浪費』ではない。
私がそのルソーの記事で書いたのはまさに今回ニーチェが言った通り、『意見を言わなかった当時の自分』と、『言うようになってからの自分』の心境である。確かに意見を言い、前に出ることでその杭が打たれた。『触らぬ神に祟りなし』として無難な位置にいた私の居場所は崩れ、矢面に立つことになった。だが、私の人生はあの時から始まったのだ。私はあれから17年経った今でも、そう確信している。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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『絶望名人カフカ 希望名人ゲーテ』という本があり、『ちびまる子ちゃん』には『いつも前向き、山田君』と『いつも下向き、藤木君』がいますが、私はいわば『ゲーテかつ山田君』であり、私の20年来の部下は『カフカかつ藤木君』です。そのような人から見るとこの名言はどう見えるでしょうか。
10年前の自分、5年前の自分、そして今の自分、どう生きてきて変わってきたのか、変わろうとしてきたのかを考えると、自分から行動を起こそうとしたことがほとんどなく、流されるままの人生になっているので、いつまで経っても昔の自分と変わらないままの状況になってしまっている。変わっていない今の現状でもストレスを感じることがあるなか、変えようとして自分に負荷がかかることによるストレス、ストレスと思っていること自体が間違っているのだろうけど、同じストレスなら前に進んでいく時に感じるストレスの方が、後の気持ちの感じ方が違ってくる。自分に対して負荷をかけることがストレスだと思わないような考え方にするためにも、前に進むような行動を選択していかなければならない。