名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
目には全てが凝縮されている。私なども、中学生の頃と今では眼つきがまるで違う。例えば鏡を見た時に、精神未熟なその頃は、『鏡に映せる顔の範囲』というものを勝手に定めていた。今でこそ『ヘン顔』の概念は存在するが、当時はない。つまり、『二枚目』の顔つきをして、簡単に言えば『格好つける』のだ。
自分がどれだけ格好いいのかとか、異性の目線も気になりだすという時期も手伝って、小学生時代が終わり、中学生時代に入ると、鏡の前でえらく自分を意識するようになり、髪型も整えるし、眉毛も揃えて、(俺、イケてるよな)という自己暗示をかけ、ほとんどナルシストすれすれの態度でもって、鏡の前に立つのだ。
つまり書いた様に、『鏡に映せる範囲の顔』という制限があった。その範囲外の顔でいることは、『ダセえ』し、『ヤバい』し、『イケてない』。従って、目の前の鏡に映る自分の顔が、本当の顔なのかどうかは、首をかしげざるを得ない。何しろ『作っている』のだ。自分が勝手に思い描いた、理想の表情を。
純粋な小学生時代から、周囲を意識しだすそういった中学生時代を経て、人は大人の階段を一つずつ確実に登っていくことになる。思春期の心が浮ついているのは、ある種の自然現象だ。だから、鏡に映った自分の姿は常にフワフワしているし、目は座っていない。『チャラチャラ』と言われたら腹が立って怒鳴り散らすが、しかし、周囲の人間はそう見るだろう。それだけ、義務や責任を放棄し、自由気ままにやりたい放題に生きて見せるのだ。往々にして思春期のやんちゃな少年は、そういう行動を取るのである。
波乱万丈な時間を経験し、周囲で死人も出るようになると、人生を葛藤し、生きる意義を見失い、さまよい、そのままドロップアウトするか、あるいは内省をして立ち止まり、それらをインプットし直す、つまり『パラダイム転換』を図ろうと考えるかに分かれるようになる。
挫折もあった。敗北もあった。絶望もあった。失望もあった。しかし、そんなどん底から這い上がり、明日への希望の光をもがきながら模索し、茨の道を歩いてきた人間の心は、泰然自若とするようになる。そこまで来ると、かつてのような『印象管理』のことなど、もうどうでもよくなっている。人からどう見られるか、何と言われるかを基準にして人生を生きることは、自殺行為に他ならないことを悟るのだ。
鏡の前に映る自分の顔も、かつてのようなフワフワとした面影はない。こちとら、『命懸け』の戦いをしてきたのだ。そしてそれはこれからも、生きてる間ずっと続いていくのだ。そういう経験と覚悟が、自分の顔つきを作り、そして眼つきを変えていく。
目は心の窓だ。自分の心が浮ついている時は、自分の眼つきも顔つきも、フワフワしていて、隙だらけ。だが、自分の命を使い切る覚悟を腹の底に据えた人間の眼つきは、眼光鋭く、座っていて、決して無下にできない、重厚な気配が漂う。人々の心を本当に動かすのは、鏡の前で作り上げた自分の理想の目つきではない。心底で燃やした覚悟から自然と捻出される魂の眼つきだ。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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