名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
『一種の』だ。つまり、俗に言う健康状態のことを『徳』と考えるのは短絡的である。そして、『悪徳は病気』も同じ考え方だ。『病気であり、』と続いている。つまり、病気になった人は、悪徳である、ということではない。こうして短絡的に考えてしまうことから、例えば『目が赤くなった』から病気で、それは悪魔に呪われたから、村人で寄ってたかって迫害するとか、生贄として差し出すとか、そういう発想になってしまうのである。
これはただの病気だ。治療すれば治るか、あるいは一時的なものか、ということだったりするのに、知識がない人間が下す判断で、人は謂れのない不遇の扱いを受けることになる。例えば『虫歯』は、歯に穴が開いたところに、何か歯に穴をあける不思議な力を仮想したり、ときには悪霊などの仕業だろうと考えていた。
それに対し、アメリカ人のミラーが、ドイツのロベルト・コッホ(1843~1910年)の研究所にいて、結核やコレラのように、何かのバイ菌が虫歯をつくるのだろうと、口腔中のいろいろな菌を調べ、『化学細菌説』という理論を出したのが、虫歯に対する最初の学説である。) 参照文献『歯医者に虫歯は治せるか?』
悪魔とか悪霊とか魔女とか、『病気=悪、悪徳』だということになってしまうと、それにかかってしまった人間は、死ななければならないことになるのだ。そうではなく、プラトンが言っているのは『一種の健康であり、美であり、魂の良い在り方』で、『悪徳は』と最初について、例えば病気であり、醜い(状態)であり、(人間の)弱さ(が露呈した瞬間)だと言っているのである。
聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。
『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。
そう考えれば、『徳』というのは『神、真理、愛、聖性』の側にあり、『悪徳』が『魔性、罪』の側にあるということがわかるはずである。色で言うなら『白』と『黒』があって、『黒』に毒される人間は、厳しく言えば人として失格だということだ。『それは醜いことなんだ』と諭してあげなければならない。
いや普通に、子供が誰かの物を奪い取って、自分で一人占めするシーンがあるだろう。そこで親は、その行為を諭し、『物はあなただけの物ではないんだよ。謝りなさい。』と言うだろう。
それでいいのだ。その時、子供の心は『黒』に毒されたが、それをすかさず親が『白』に塗り替えた。するとそこで戒められた子供は、また違うシーンで同じように『黒』に心が毒されそうになったとき、過去の経験を思い出し、自分でブレーキをかけることが出来るようになる。
この『色』が、真っ黒に染まりきった頃、人は例えば犯罪に手を染めるようになる。後で言うのは簡単だが、このことを理解したとき、いかに教育が重要だということがわかってくるはずである。中には、親に捨てられた子供もいるだろう。彼らは、染まってしまうのを止めてくれる存在がいなかったのだ。それは一体、誰の責任だろうか。全ての『教育者』を語る人間は、自問したい。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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