名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
フロイトの言う、イド(エスとも言う)、自我、超自我、という人間の精神の段階を簡単に説明すると、イドとは、わがままな末っ子、自我は、責任を課せられた長女、超自我は、そんな子供たち全員に無償の愛を捧げる両親だ。
つまりイドとは、自分の本能、欲望にストレートに突き動かされている精神状態。自我とは、イドの精神はもちろんあるが、それでも責任を持って、『やらなければ』と、やるべき義務を果たそうとする精神。超自我とは、もちろんイド、自我の上に成り立っているが、その二つとは違い、『義務』や『責任』に対し、閉塞感や抵抗がなく、むしろ喜んでそれを引き受けられる、器の大きな精神だ。『良心ともいいうる、内面化した倫理的価値基準に従おうとする動機群』である。
さて、この『超自我』とは、自分の心の中にある『良心』だが、それを植え付けるのは間違いなく自分の『両親』である。親がすぐに手を上げるような家庭であれば、子も、それらに対する罪悪感は育たないだろう。それで『良い』のだという考え方になる。そのように、『両親』によって『良心』の象り方に、差異が出る。
自分から見て、『あの家庭は厳しすぎる。自由が無い。かわいそう』と思って哀れむのはいいが、彼が10年後、若くして世界的な記録を残す何らかの偉人になったなら、その反動でその10年間、自由気ままに『やりたいこと』をやっていた自分を、恥じるかもしれない。自分の親が育てた『良心』への自負を、疑ってしまうかもしれない。
あるいはそこには実は最初から『良心(超自我)』などなく、ただ単に、”育児”こそ大切にしてもらったが、『イド』の精神のまま、義務による閉塞感から解放させてやりたく、あるいは戦後、バブル後、ゆとり世代という時代背景も手伝って、 ”教育”を放棄されていただけだったのかもしれない。
『やりたいこと』ではなく、『やるべきこと』をやる人生を教えられたら、彼と自分との差は、開かなかったかもしれない。彼のことを『かわいそう』だと思ってしまう心が在ったこと自体、間違っていたのかもしれない。
フロイトも、この『超自我(良心)』の起源として最も重視しているのが、『両親の教育』だと言っている。それだけ、親の持つ責任とは重いのだ。それをよく理解したうえで、子を産み、育てなければならない。
イチローは言う。
松坂の高校時代の恩師は言う。
『三笠山に登る一歩、富士山に登る一歩、同じ一歩でも覚悟が違う。どこまで行くつもりか、どこまで上るつもりか、目標が、その日その日を支配する。』
自分の心の弱さ(イド)を知り、それらに支配されて生きる愚かさと、有限のこの人生という尺度を知り、『やりたいこと』ではなく、『やるべきこと』をやる人生を生きたい。人間が歩ける『一歩』とは、確かにたかが一歩だ。人間にはそれしかできない。一歩ずつしか、前に進むことが出来ない。だがそれがどうした。だとすれば、『確かな一歩』を踏みつづければ遠くへ行けるのだ。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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