名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
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考察
アインシュタインは言った。
そう考えたら、なるほど、自分が他人からなんと言われるか、どう見られるかを気にすることも、『その他大勢』に帰属することに依存することも、『個性』を隠蔽することも、無意味だと知る。 見るべきなのは以下の黄金律だ。
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』
人の意見など、人の意見にしか過ぎない。自分には自分の意見があり、それこそが自分の存在が唯一無二の存在である証拠だ。
エマーソンは自身のエッセイ『独立独歩』でこう言っている。
『だれでも教育を受けている過程で嫉妬は無知であり、模倣は自殺行為にほかならないという確信に達する時期がある。』
自分らしく生きればいいのだ。それ以外の選択肢など、忘れたっていい。あるいは、犯罪人類学創始者のチェーザレ・ロンブローゾは言った。
人生に常識などない。あるのは地球だ。そして命の日数だ。その中でどう生きるかだけだ。もし、『人はみな気狂いではない』と定めてしまうのであれば、それは上記の黄金律に逆らう行動である。つまり、『人の評価に依存』しているのだ。
(きっとあの人はまともな評価をしてくれる)
と。信頼してしまっている。いやもちろん、人格者や達観した人なら、正当な評価をするだろう。だが、この世にそういう人は、目を凝らしてもそう簡単には見つかるものではない。一見すると自分のことを心配して愛しているように見える両親ですらも、その根幹には『自分の思い通りにしたい』というエゴがうごめいているものである。
例えば私の両親はクリスチャンであり、私に幼少期からクリスチャンであるように仕向けた。『教育』ではなく、『仕向けた』というところに、この家庭にどのような問題が生じていたかは察知するはずである。
そう。私は34歳になった今も、クリスチャンではないのだ。そしてそれはこれらかも、未来永劫、そうなることはないのだ。確かに私の師は『四聖』に数えられる、
孔子、
ブッダ、
キリスト、
そして世の偉人たちである。
しかし、クリスチャンではない。キリストの教えには尊いものがたくさんあるが、『キリスト教徒』には首をかしげざるを得ないのが現実だ。
マザー・テレサは言った。
それが現実なのである。私は『人はみな気狂いではない』と定めていなかった少年時代、両親を許すことはできなかった。今でもまだどこかで許すことができないのは、私がまだ完全には親を『気狂いだ』と定めていないからだろう。そう簡単に人は、特に自分の両親を気狂い扱いはできないのも事実だ。
だが、『気狂いである要素がある』と定めてからは、その定めた分だけ親を許せるようになった。
(まあ、かわいそうか。気狂いなんだから。)
として、病気の人を見るような目で哀れみ、同情することができるようになった。これは、少年時代、一時宗教ごと親を呪い殺そうとしていた私にとっては、奇跡としか言いようがない進歩なのである。
『人間はみな気狂いだと気づいたとたん、人生のふしぎは消えて自明になる。』
あまり人間を過大評価しないほうがいい。特に自分の両親や尊敬する人に対しては、自然とそうしてしまうのが人間というものである。しかし、かつての私のようになる理由こそは、人間を過大評価していたからだ。
彼らもかつて赤子であり、歴史に名を遺す人物でもなく、稀代の逸材でもない以上、彼らにも事情があり、弱さがあり、エゴがあり、執着がある。それがある以上は、彼らが完璧な結果を捻出することはできないのだ。一つ、人間に対してそういう視点を持ちたい。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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