名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
マイケル・サンデルの著書、『これからの「正義」の話をしよう』にはこうある。
『誰が何に値するか?』ーアリストテレス
『これからの「正義」の話をしよう(P242)』
アリストテレスにとって、正義とは人々に自分に値するものを与えること、一人一人に相応しいものを与えることを意味する。だが、相応しいものとはなんだろうか。真価や功績の土台として似つかわしいのは、どんなものだろうか。それは、分配されるものによって決まる。正義には二つの要因が含まれる。『ものと、ものを割り当てられる人』だ。われわれはふつう、『同等な人には同等のものが割り当てられているはずだ』と考えている。
だが、この点に関して難しい問題が乗じる。何において同等かという問題だ。それは分配されるものと、それにかかわる美徳によって決まってくる。たとえば、笛を配るとしよう。最もよい笛をもらうべきなのは誰だろうか。アリストテレスの答えは、笛を最も上手に吹く人だ。
正義にかなう区別とは、実力によるもの、当面の問題にかかわる優秀さによるものである。笛の演奏の場合でいえば、笛をうまく吹く能力ということになる。ほかの基準で区別するのは正義にかなっているとは言えない。例えば、富、家柄の良さ、肉体的美しさ、運(くじ)といったものである。
家柄の良さや美しさは笛を吹く能力よりも大きな善かもしれない。全体的に見れば、そうした善を持つ人がそれらの資質において笛吹きに勝る度合いは、笛吹きが演奏で彼らに勝る度合いよりも大きいかもしれない。だが、それでも、笛吹きこそが彼らよりよい笛を手にするべきだという事実は変わらない。(中略)彼の考えでは、最もよい笛が最もよい笛吹きに与えられるべきなのは、笛はそのためにーうまく演奏されるためにー存在するからだ。
『誰が何に値するか』というテーマで考えれば、確かにアリストテレスの考え方は、公平に見える。どう考えたって、表層的なステータス、つまり『力』を持っている人間が、それだけの理由でその笛を奪い去るという事実は、理不尽である。
笛も、きっとそういう人には吹いてもらいたくない。演奏の上手な人に吹いてもらいたいはずだ。それは、笛も含めた楽器だけではなく、例えば過去の話で言えば、『剣』でも同じことが言えるだろう。どんなに切れ味の良い『名刀』と呼ばれた剣も、その持ち主がその刀を使いこなせないなら、なまくら刀と化す。
だが、ここで浮上する問題は、『だったら子供は笛が下手だから、笛を持つべきではないのか』ということであり、『剣の存在は、そもそも認められるのか』ということである。
剣の話は私が勝手に持ち出したから置いておいて、笛の話だけで考えよう。私が子供で、その時点では笛の演奏が下手でも、もし貰えて、他の人が貰えなかったのなら、きっと私の性格上、責任を感じて、必死に練習する可能性が高い。だとしたら、『笛は笛の演奏が上手い人間に配るべき』という発想は、少し短絡的なものに見える。現時点で下手だからといって、『こいつは一生下手だ』と決めつけるのは、その人物が笛の演奏が上手くなるかもしれない可能性を潰すことになり、機会損失を起こす。
しかし、ここで言われているのは『最もよい笛』だ。最もよい笛、よい笛、普通の笛、壊れてもいい笛、とあった場合、誰にどのような笛を分配するかということの、公平性の考え方の話を、アリストテレスはしているのである。だが、それでも、もし私が笛の名人だった場合、私の下に最もよい笛が渡されたら、きっと『欲しがっている子供』にあげる選択肢が頭をよぎるだろう。自分の命が、あとどれくらいなのかもここに影響してくる。
冷静に考えて、笛の名人が、その笛をもらい、『そうだ。この笛は俺が持つべきなんだ。』と言っている映像を想像すると、執着にまみれた人間の汚い映像に見えなくもないだろう。どうせ人間は死ぬのだ。私はお金を稼いで、『世の中はお金ではない』と言って、世の為に寄付する人が、とても立派に見える。
しかし、『その判断は、そうした金持ち(金に支配されていない金持ち)にしか出来ない判断だから、だからこのお金はあなたの下へ預けたんだ。他の者なら、それを散財させてしまって終わりだから。』
という発想があるのなら、確かに、人格に優れた人間が為政者に、金を支配できる人間が金持ちに、笛の扱い方がわかっている人間にもっともよい笛を、という考え方は、あながち否定することはできない。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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