名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
『伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。』
これはもしかしたらこの一節だろう。私の亡き父親が最も好きだった一節であり、そして、私の人生にとっても非常に関わりの深い一節である。聖書の『伝道者の書 5章』にあるこの一文。
『見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。』
『ニヒリズム』とは『虚無主義』ということで、例えば、『この世は虚無だ。無だ。真理も愛も神も何もない。』という考え方だが、要はそれを考えた時私がいつも言っているのは、
『だからといってくよくよと下を向いて生きていく理由にはならない。』
ということで、人としての『矜持』や『意志』は、確かにそこに在るわけだ。人間には、説明書がない。しかしその他の説明書はある。なぜならそれは、『人間が作ったから』だ。だとしたら、人間が勝手に作ったわけで、そうすると、その『人間』がいなければ、この世は『虚無』であり、そこに説明書も何もない。
だから、『説明書が無いのは当たり前だ。虚無なんだから。そこに無理やりつけてるだけだろ。理屈を。』という発想が一つ、よぎるわけだが、しかし、先ほど書いたように『矜持』、『意志』、あるいは、『真理=愛』はあるのだ。
あるいは、『1+1=2』という、原則がある。
確かにブッダは、
と言って、この世のすべては流動変化していて、宇宙の外は虚無だと言った。だが、だとしたら『それ』が『真理』なのだ。つまり『虚無』なら虚無で、『虚無が真理』なのだ。だとしたら、『真理はある』のである。
トルストイは、
と言ったが、これは『事実』だ。『限界効用の逓減』という概念がある。それは例えば、仕事終わりのビールは美味いが、二杯目、三杯目と味が落ちていく現象のことである。ではこれを、トルストイの言葉、聖書の言葉と照らし合わせて考えると、どういう事実が浮き上がってくるだろうか。
これらの真理から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。
私が抱く印象とは、そういう印象である。私が『関係が深い』と言ったのはこの部分で、私はどうも、中学時代から『虚しさ』についてよく考えていた人間で、『夏休みの違和感』というテーマの葛藤を、常に抱き続けていた。
『虚しさ=虚無』だろう。せっかくの夏休みなのに、私は全く楽しくなかったのだ。その理由がわからず、私は人生に面白味を覚えることがなくなっていった。生きてたって、何も面白いことはない。やったってどうせ死ぬし、何もやる気にならない。短絡的に、すぐに報酬系物質が脳内に湧き出るような、刹那的な快楽を味わい、若気の至りを尽くしてしまった理由も、根本にそんな虚無たる葛藤が、渦巻いていたからであった。
それは一見すると、『私が虚無という事実、実態に近づきだした』と捉えることもできる。だからその虚しさを、『ドーピングで麻痺』させ、日々を生きながらえていたと解釈することもできる。だが違うのだ。『虚無』ではなかった。問題は『虚無』とかなんとかっていう、『外部』にあるのではなかった。『自分の心』に問題があっただけだったのだ。
『インサイド・アウト(内から外へ)』だったのだ。私もこの聖書の一説について、宮崎駿と同じように、(すごいなあ)という感想を抱いたが、同じ感想かどうかはわからない。私が抱いた感想は、
『こんな虚無たる世の中と人生の中で、確固たる光り輝く真理の光があるなんて。』
だ。あるいは、私の人生を長い間苦しめて来た『聖書』が、『人間の説明書』であることを知った。そんな、喜びと解放の感情が、私の心を躍らせたのかもしれない。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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