名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
まずはそのまま、その通りだ。しかし、そのすぐ後に思ったのが、(そんなことはない)だ。私は極めて考え事が多く、それはこのサイトをくまなく見ればすぐにわかることだが、しかし、私が一度話し出したら数時間などあっという間である。
だから(そんなことはない)と思ってしまったのだが、更に次の瞬間に、『余計に』と入っていることに着目し、だとしたら、私の話は余計ではない、ということが認められたので、心は平静を取り戻した。別に取り乱していたわけではないが、しかし、平静を取り戻した心でなければ、見えるものも見えないのが人間だ。まずは、言葉を見て、それが正しいかどうかを見識でもって検証し、そして違うなら否定するが、まあ、私が今まで見て来た偉人の名言は、間違っていることはほとんどなかった。人間の偉人に数えられるのだから、確かにそれは当たり前と言えば当たり前だが。
平静を取り戻した上でもう一度モンテスキューの言葉を考えてみると、すぐに思い浮かんできたのは、私と母の人間関係である。母というか、女性全体なのかもしれないが、普通女性は、お喋りをする。それがとても好きだし、だからガールズトークが成り立つ。
精神未熟な10代前半の頃はまだしも、私はこのガールズトークを、内容が無駄なら、時間の無駄だと考えてしまう、THE・男脳の典型である。『女性は浅薄だからお喋り』と言ってしまうと大変なことになるので言わないが、こと母親ということであれば私には言う権利がある。
母はちょっと、物事を考えずにあれこれと決めつけて、喋り過ぎである。ひどいのは、私が吃音症の部下に対する教育をしていたとき、その指導を見て『不愉快だ』と言ってしまったことは、浅薄も浅薄。親としての機能も果たしていないことに、私は別に、びっくりしなかった。
何しろ私は、『嫌だ』と言い続けているのにも関わらず、その私の意見をすべて遮られ、無視され、隠蔽され、実に29年間の間、両親にクリスチャンになることを強要されて育ったのだ。
それは、今書いたとおり『強要』だった。人の心を救うはずの信仰が、人の心を長い間苦しめていたのである。これは、私がヒステリックでネガティブな人間であれば、『精神的虐待』だと騒ぎ立てていてもおかしくない話だ。29年という時間を、まさか知らないわけではないだろう。そんな私が、親に、その数年前はその部下を甘やかす時期も当然あって、それで、病気も発覚して、甘えも発覚して、の、あれこれあっての『強い指導』である、
…ということを想像されずに、私に全ての非がある、と決めつけられ、『不愉快だ』と言われたことは、別にびっくりしなかった、ということは、想像にた易いはずである。しかし、残念の一言だ。
なぜ、『そう想像することも出来た』はずの選択肢の中で、『息子が一方的に悪い』という風に思う選択肢を選んでしまったのか。それは、自分が教えるキリスト教を、その息子がずーっと拒否し続け、あるいは、かつてそれから目を逸らすように反発した不良少年の時代が、母親の目を曇らせ、考えを歪曲させ、真実を見誤らせたのである。
ということで、母親が何も考えずに喋る人間だということはイメージできたはずだが、もう一つのカギは、『なぜ29年間もそれが続いたのか』ということである。
それは、私が意見を主張しなかったからだ。それだけのことである。
『言えない』のではなかった。『言わない』だけだった。何しろ私の精神力は、自分でもわかっている。ずば抜けているのだ。つまり、母親を論破して、信仰心を崩すぐらいのことは、造作もないのである。
例えば、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンを全て破壊すればいい。買い換えるなら、また壊せばいい。それでどうやって暮らしていけると思うか。つまり私は『男』なのだ。女が口が武器だと言うのなら、男の武器は『力』である。男を本気で怒らせない方が良い。私のような考え方の人間は、怖い。
つまり、私は親を、家族を愛しているのである。なぜなら、それをしないからだ。するとどうなる。母親の目に映る姿は、『じっと黙っている私の姿』だ。私はそうやって、誤解され続ける人生だった。
モンテスキューの言葉をもう一度考えてみよう。
『人間は考えることが少なければ少ないほど余計にしゃべる。』
『言えない』のではなく、『言わない』私が本気でしゃべりだしたときは、あるいはその数時間のトークの内容は全て、『余計な話』ではなく、『真に迫る話』である。(と自負している)
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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