名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
『自己の向上を心がけている者は、喧嘩などする暇がないはずだ。おまけに、喧嘩の結果、不機嫌になったり自制心を失ったりすることを思えば、いよいよ喧嘩はできなくなる。』
これは本当にそうだ。血気盛んな10代、20代を過ごした私にって、この言葉はとても強く響くものである。
(もう前みたいな無茶なやり方は出来ないな)
と考えるようになるのだ。自制心である。以前なら、別にどうなってもよかった。別に将来に目標もなかったわけで、毎日を悪友と刹那的に生きているだけで充分だった。未解決問題もたくさん抱えていた。そういうことも面倒だった。例えばその内の、家庭内の宗教問題については、特に面倒だった。
面倒というか、一生解決することがないだろうから、そういう要因が心のどこかであって、そこから目を逸らすことで、結果として刹那的な方向に目を向けていた。だから喧嘩相手だろうがなんだろうが、自分の人生の邪魔をする人間は、もうこれ以上増えることは許さなかったのだ。私は断固として自分の考えを曲げるつもりはなかった。行くならとことんまで行くつもりだった。
私は人一倍向上心を持っていることは確かだった。『行くならとことんまで』と言っている時点で、上に行く気持ちがあるということだが、だが、その矛先が間違っていたのだ。間違った方向に、とことん行こうとしていたのだ。刹那的で、命の無駄遣い。私が当時過ごしていた人生は、こういう言葉がピッタリくる人生だった。
それが、『微調整(矯正)』によって、徐々に適正な方向に軌道が修正されていった。その陰には恩師の存在があったり、法律、道徳、仁義、信頼等という大まかな概念の存在があったり、偉人、賢人たちの言葉の存在があったりと様々なものがあるが、とにかく『自分以外の確固たる要素』の存在が、私が歩くべき道の軌道を修正してくれたのだ。
今、安易に喧嘩をしなくなったのは、『喧嘩をけしかけたら一般の人はすぐに怯えて話にならない』ということと、『怯えない相手はもう堅気じゃないレベルになった』ということ、あるいは、『守るべきものが出来た』ということが理由に挙げられるだろう。
『要領』も知った。堂々とした態度は居直れば誰にでもできるが、『正々堂々』は、誰にでもできることではない。堂々とした態度で居直って強気に出ると、問題が大事になってしまうことを知ったのだ。
それに私は、正々堂々でなければ男が廃ると思っていたし、人として未熟で、それは悔いの残る人生に繋がっていると考えた。とにかく人として上を目指せば目指すほど、正々堂々とした態度を取る必要があることを知っていったのだ。
関連リンク:黒ひげ『高みを目指せば、出す拳の見つからねぇケンカもあるもんだ!』
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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