名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
老子が実在していたかは定かではないらしいが、それはキリストが神の生まれ変わりかそうじゃないか、ということのように決着はつかないだろう。多くの人間に『居た』と認識されているのであれば、もし仮にいなくても、それはもはや『歴史上の人物』に等しい。
中国の三大宗教、いわゆる『三教』は、ブッダを開祖とする『仏教』、孔子を始祖とする『儒教』、そしてこの老子と神仙を宗祖とする『道教』が数えられる。孔子の生涯を描いたチョウ・ユンファ主演の映画『孔子の教え』では、孔子が年上である老子と対話をし、教えを乞うシーンがあるので、伝えられている話としては、老子は孔子よりも目上の存在ということになる。
さて、今回の言葉の内省に入ろう。他者のことを、我々はどれぐらい知ることが出来るだろうか。
『どんなに頑張っても、結局人の気持ちはその人にしかわからない。』
きっと多くの人がそう思っているだろう。私の周りにもそういう人が多い。というか、そういう人だらけだ。それはなぜだろうか。私はこのテーマについて散々考え抜いた人間として言えることがある。彼らは『被害者ヅラした悲劇のヒーロー、ヒロイン』だ。
恐らく多くの人がこれに反発するだろう。こういう事実を受け入れられる人間は極めて少ない。それにまず、私に信用がないし、更に、『窮鼠も猫を噛む』。まず間違いなく(お前に俺(私)の何がわかるんだ)という言葉が頭をよぎるだろう。だが、それこそがその証拠なのである。
何を隠そう、私は18歳の時に、前述したような言い方の更に10倍以上きつい言い方をされ、自分のパラダイム(価値観、人格)を否定された。本当に尊敬する恩師だった。だが、そんな関係性でも、(こいつは俺の敵だ)と、一瞬思ってしまったのだ。人間は、自分のことを否定されるのに慣れていないのである。
絶対に泣かないと決めている私が、人前で涙を流した。突きつけられた現実をどうすればいいか、一瞬わからなかった。しかし、私には選択肢がなかった、というのが不幸中の幸いだった。前に進むには、受け入れるしかなかった。それに、やっぱり私の中で、彼らは恩師だったのだ。
(あの人たちが嘘をつくわけがない。自分に非があると認めた方が、間違いなさそうだ。)
そう、思わせてくれたのだ。するとみるみるうちに私が心底に隠蔽していた気持ちが浮いてきたではないか。私はただの、『自分本位』で『薄情』な、『醜く』て、『冷たい』人間だった。私は、『自分さえよければ、それでいい』と思っていたのだ。
他人には他人の人生がある。他人にしかわからないし、他人にどうこう言われたくないだろう。そう思っていた。だから、見て見ぬフリをしていた。そして表層では、『仲間』のフリをしていた。それなのにむしろなぜ、『否定されない』と思っていたのか。
それは、自分が『優しい』と思い違いをしていたからである。自分には『非が無い』と自惚れていたからである。加害者ではなく、むしろ被害者。とにかく自分には『その現状』をどうにかする責任は、無いと思っていた。
そう。私は『優しい』のではない。『易しい』人間だったのだ。
恩師達はそれを見抜いた。そしてこうも言った。
恩師は私のことをよくわかっている。私が期待されるほどの人物なのかはさておき、そういう言い回しは私にとって、『血沸き、肉躍る』のだ。皆が出来ないことをしたい。私は日々そう思って生きている人間だからだ。同時に、
(自分の非を認めることはそれぐらい難しいことなのだろう)
という考えが頭をよぎった。
『知恵』とは、こういう意味だ。
物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。
『正しく処理』。つまり、その処理する自分が、間違っていたら当然正しく処理などできない。コンピューターが壊れていたら、打ちこんだ計算や処理を間違えて、間違った答えを出すのと同じだ。では、他者を正しく処理(理解する)というのが『知恵』だとすれば、それはどのようにすればいいだろうか。
もうわかっただろう。答えは外にはない。自分の心にある。かつて私が自分にとって都合の悪い真実を隠蔽して生きながらえていたように、人間は、見たくないものに蓋をして、自分の人生を何よりも優先させて生きている。あえて言えば、必死なのだ。皆生きるのに、必死なのだ。
だが、『だから仕方ない』という結論にはならない。多くの人が出した結論が常として正しいのであれば、キリストとソクラテスを無実の罪で殺した大衆こそ、歴史に残るべき、勇者でなければならない。まずは『悟り』だ。悟りとは、『自分の心底に沈めた開かずのドア』を空けること。助言とは、『そのドアを開くカギ』である。
私は当時、恩師からもらったそのカギを、確かに刹那では、投げ捨てそうになった。しかし思いとどまった。彼らが私に『ガラクタ』を押し付けるわけがない。そう、信じることが出来たからだ。
するとやはりそれは、ただのガラクタではなかった。確かに古びていた。銀や、金の色の方が輝いているし、人が寄ってたかる。だが、心底に沈んだドアの鍵の形状はむしろ、こういう、くすんだ色や形をしているものだったのだ。私はそのドアを開け、今まで見て見ぬフリをしていた真実と向き合った。確かに最初は、足が震えて、目に涙が溜まる日々が続いた。
言い返し?偽善者扱い?いわれのない誤解?そんなもの日常茶飯事だ。しかし断言しよう。私の人生は、あの時から始まったのだ。
ルソーは言った。
言い返しをされるかもしれない。嫌われるかもしれない。そういう『損な役』を買って出た恩師たちのことを、私は一生涯、恩師と言い続けるだろう。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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