名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
例えば『あの人は意固地な人だ』と言うが、彼が何かを成し遂げた時には『あの人は意志が固い人だった』と言い換えるだろう。そう考えただけで、あながち他人の中に見え隠れする欠点チックな問題に対し、『欠点だ』と決めてかかるのは、待った方が良い。
私などもよく10代の頃は、周囲の人間に、
『変わってるね』、
『不思議だね』、
『何を考えているかわからないね』、
『考えすぎだよ』、
『神経質なんだよ』、
と言われたもので、あまりにも不当な扱いに、その人の顔も名前も、言われた場所も全て覚えているが、その数年後、私は人生の恩師と言える数人の人間に出会い、彼らとは全く違うことを言われ、生まれて初めて正当に評価されたことに感動し、この世を明るく生きる為の、活路を見出すことが出来た。
『君の様な抜群の生徒が昔にもいたが』、
『君の潜在能力が見たい』、
とほめられることもあったし、
『お前は一生手を抜けると思うな』、
『醜い、卑怯だ、汚い、ずるい』、
と、心底まで見抜いて凝り固まって歪んだ心を矯正する行動にも出てくれた。つまり、彼らは私をただ甘やかしただけではなく、私が少しでも真実を隠蔽し、手を抜こうとすると、真剣に叱ってくれたのである。
しかし、前者の人々は、なぜ『揶揄』、『批判』の方向だけで評価したのだろう。後者の人々の様に、これらを『長所』だと捉える選択肢もあったはずだ。しかしそうはしなかった。そこにあるのは、ある種の『嫉妬』であり、また同時に『想像力の欠如』だ。
その恩師たちは私よりも一回り以上離れた人間である。そして前者の人々は皆、私と都市が変わらない人間である。したがって、前者は私に対抗し、後者は私に対して『子のような』目を向けることができる。それが一つ目の違いだ。
もう一つの違いは単純に、前者の経験不足だ。
ゲーテは言った。
つまり、見るべきなのは以下の黄金律だ。
人間には、理解できる範囲とできない範囲がある。では、その事実を受け、どうするかだ。
前者と後者では、人を見る目に雲泥の差があったのだ。
だから私は前者に対し、後者のようなポテンシャルを求めてはいけないのである。まるで、私が『彼らの親』であればこの問題はすんなりと解決するように、どこか彼らに対し、『やれやれ』という気持ちで対応することが求められるのである。
例えば私は、『四聖』に数えられる、
孔子、
ブッダ、
キリスト、
世の偉人たちと向き合っている。
しかし彼らは別に『最初からそんなこと興味ないよ』という考え方で生きている人々であり、そこには最初から『乖離』があったのだ。したがって、彼らとの関係を円滑にいかせるためには、何らかの潤滑油を塗るか、あるいはどちらかがその水準に合わせなければならない。
潤滑油なら例えば、新島襄がこう言っていて、
松下幸之助ならこう言っている。
また、水準に合わせるということであれば、例えば小林秀雄がこう言っているが、
自己を隠蔽し、相手の水準に『合わせてあげる』なら、違った形の歯車が円滑に回りだすことになる。
『私たちは彼の弱点にはそっと触れるようにしないといけません。欠点は美質と表裏一体なので、欠点という雑草を取り除くと長所の根まで抜いてしまうことがあるのです。』
しかし実は、もう前者たる彼らとの関係は断たれている。上に挙げたことはとっくのとうにやっていて、それでたどり着いたのが今の結論だ。長い間連れ添った人間たちだが、私はやはり、自己隠蔽をしてまで生きながらえるこの人生に、意味を見出せなかったのである。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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