名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
『大きな愛のあるところ、奇跡あり』。これに関しては、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を思い出してみればよい。ジャン・バルジャンは世話になった教会の銀の食器を盗んだしかし、それを告白された牧師は、こう言った。
そしてジャン・バルジャンの心はやがて、牧師がその時に植えつけた種を花咲かせ、彼を荒んだ人生への怒りと悲しみから解き放った。
私は物心ついたときから、両親がクリスチャンであり、そのことについて葛藤した内容とその重さは、とてもここに書ききれるものではない。強要されたのだ。
(これは本当に、愛なのだろうか?)
それから実に波乱万丈な20年の時間が流れ、レ・ミゼラブルを観た。そこで出て来るこの牧師の行動に、私は真のクリスチャンの姿を見たのだ。『愛』とは、こういうことを言う。奇跡が起こせないならそれはむしろ、愛ではないのかもしれない。
例えばその私の親だが、今は母親しかいない。父親は私が17歳の頃に死んだ。そして父親は死ぬ前に、
と言い遺した。そんな遺言を遺された『非クリスチャン』の私は一体どうしたらいいのだろうか。彼にはそのあたりのことが一切考えられていないのだ。10代のある時、私は母親に、
と怒鳴り散らした。しかし母親が言ったのはこうだ。
その時、私の目には母親が、『息子の人生よりも自分の信仰を優先させる』ことに執着している、愚かで脆い、『さまよう子羊』に見えた。
トルストイはこう言い、
あるいはこうも言った。
愛は惜しみなく与え、没我を教えるものだ。しかし母親は『愛』の意味をはき違え、『自分の信仰を強要する』ことが間違っているということに気づかなかった。いいだろうか。確かにクリスチャンは22億人いる。だが、残りの50億人は?一体何者だと言うつもりだろうか。
『大きな愛のあるところ、常に奇跡がある。』
私はもう30年以上、偏った考え方に依存した脆き人間を目の当たりにしてきている。彼女は、最愛の夫が言い遺した言葉を無視し、何よりも重きを置いてきた信仰を捨て、私との不和を解消し、また共に食事をすることができるようになるだろうか。もしあったとしたのなら、そこには大きな愛がある。私が妥協すればいい?いや、私はもう十二分にやった。そのうえで言っているのだ。次は私よりも30歳も年上の彼女がその愛を見せる番である。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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