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考察
こういう考え方が沸き起こるのは想像にた易い。まず『神がいる』ということが前提であるところがポイントである。神がまず当然の様にいて、そしてそれがいないと困る、という『依存体質』の様な人間の心情が垣間見えるワンシーンである。(創造する必要がある)などと。別に、無いのに。しかしそうする必要があるということは、よほど人間が未熟で不完全で、『神』という存在にひれ伏す『奴隷』であるような印象を受ける。
いやもちろん、『我々は神のしもべであり、奴隷です』と言う教えもあるだろう。それで傲慢不遜に陥らないようにするのであれば、それもいい。しかし、それでもまず最初に『神』という設定があるということは、『無いかもしれない』のに、論理的思考を持った人間からすれば、意味不明である。そもそも、『仏像』等の偶像崇拝は仏教でもキリスト教でも認められていない。しかし、そのような像は世界のあちこちに当たり前かの様にあり、何なら世界遺産である。ブッダは、
ブッダ
と言って、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同じように、偶像崇拝を否定した。『偶像』というのは、木、土、石、金属等で作った像のことだ。つまり、『仏像』は偶像であり、そしてそれに向かって何か念仏の様なものを唱え、(お助けください)と念じるのをブッダ(釈迦)が見たら、
ブッダ
と言って、諭されることになるだろう。しかし多くの人間は、自分の身近に崇拝する偶像を置いておきたい。そして、自分の力ではどうしようもない困難な現実に直面するたびに、そこへ出向いて、祈りをささげ、何とかその試練を乗り越えたい。だが、ブッダから言わせればそれは『執着』だ。執着は、ブッダの教え、つまり仏教の中でも最も罪とされる人間の心の在り方。
そもそも、なぜ試練を突破しようというのか。そんなことをしても、しなくても、いずれ人は死ぬのに。たまにその祈りの中に、そうしたこの世の摂理に逆らって、
(神様、私はもっと生きたいんです。寿命を延ばしてください。)
という類のものがあるが、本末転倒である。人間は必ず、死ぬのだ。そんなことを念じているのは、人間だけである。
また、キリスト教で考えても、
『7つの大罪』という罪の定義がある。
- 傲慢
- 強欲
- 暴食
- 色欲
- 嫉妬
- 怠惰
- 憤怒
である。この7つの人間の間違った感情の在り方は、全てブッダの言う『執着』と密接にリンクする。『神や仏』に『執着』して、それを勝手に『創造する』人間の心の在り方は、正しいのだろうか。間違っているのだろうか。
マルクスはこう言い、
ニーチェは言った。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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