Contents|目次
この記事は、上記の記事の『LEVEL6』に該当する記事です。ぜひ一度そちらに目を通してください!
青キジのモデルでもある松田優作は、ファンに対してこう発言しています。ファンというのは一体どういう存在なのでしょうか。そして自分が渇望する要素を満たすために他のことが目に入らなくなり、それが満たされて満足する依存症との違いは、どこにあるのでしょうか。
この記事で思考トレーニングをし、修業を積んだあなたは、間違いなく現在より『ファンレベル』が引きあがり、今まで以上にファンを楽しめるようになっているでしょう。
ある日、世界三大記念艦の『三笠』を見た時のことです。下が実際の写真です。猿島に行く途中で寄った時間潰しだったのですが、この船の中には細かい船の歴史や、たくさんの種類の船の模型が並んでいました。
船の歴史まではいいのですが、船の模型の数々は、さすがに細かい。素人目にはそれらの船のどこにどういう違いがあるのかもわかりませんが、しっかりと一つ一つに名前があったり、特徴があったりしている。私はそれを見た時、
これを突き詰めていたら人生がそれで終わるな。
ということと、
人は行きたい場所にいくらでも行けるな。
という2つの考えが頭をよぎりました。
と思った。それくらい細かい内容がそこにあったのです。いやもちろん、それを全部一人の人がやったわけではないかもしれません。皆で少しずつ、余暇時間を使って作り上げたら別に何の問題もない。それに、そこにその模型があった方が、ないよりも絶対にいい。
しかしこの時ふと頭によぎったのは、『人の一生は、寄り道をしようと思えばいくらでもできる』という事実であり、だとするとそれは、自分の命を使いきるという使命を負った人間にとって、どういうことなのか。その時私の中で、そういう内省が始まったのです。
その考え方の延長線上で私は、ワンピースの世界にすべてを捧げる為に生きるのは違うと感じた。その時ちょうど私は猿島でやっていたワンピースのイベント『宴島』に行く途中でしたから、自然とそういうことを考えたのかもしれません。
これはあくまでも、一つの考え方です。『ある視点』という形で、少し肩の力を抜いて、しかし真剣に熟考してみてください。私だって『ある視点』から見れば、何の意味もないイラストを描いたり、テレビ番組を見て時間を過ごしている。
スイスの心理学者、ユングがこう言っています。
その模型を作った人からすればワンピースファンこそが猿島に行くその時間こそ、『無駄な時間を過ごしている』かもしれません。そういうことはわかっているんです。これはもちろん、各人が大事にしていることへの否定ではない。しかし、ここで考えることはきっと少しは、あなたの人生の参考になることでしょう。
例えば私は日本の世界遺産を1年で全て観て回り、また2000本の映画を鑑賞し、500人の偉人の8000の名言と向き合いました。どれも真剣に向き合った(リンク先にそのすべての詳細が載っています)。しかし、その為だけに人生を生きているのではないのです。私にとって世にある全ての要素とは、私の人生の教材であり、遊び場であり、そして共に生きた盟友なのです。決して、依存の対象ではない。
ワンピースに限らずたまにファンの『やらかし』が暴走しますよね。好きすぎてその感情が間違った方向に向かい、一線を超えたり、相手を攻撃したりする行為です。しかし、それは本当に『ファン』と言えるでしょうか。
たとえば以前、ある漫画のファンがワンピースの悪口を言って、その人に対し、ワンピースのファンがこぞって仕返しをするかのように、文句を言ってネット上で攻撃していました。
もちろんそれは先に攻撃した方もよくない。しかし、それは、尾田栄一郎の望むことでしょうか。そして、真理に則った行為と言えるでしょうか。
この場合、人が絶対に守らなければならないもの。正義。
我々は何かのファンの前に『人間』であり、人間というものは絶対に守らなければならない『真理』というものがあります。それを守るためには常に冷静な克己心と平常心、そして物事を俯瞰的に見る大きな視野が無ければなりません。
下の記事で既に見た人もいるかもしれませんが、私は無宗教です。そして、自分が無宗教であることの正当性を証明するためにも世界の宗教や、四聖を学ぶ必要があった。四聖とは儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の、四名の歴史的賢人です。
例えば孔子はこう言っています。
更に、ブッダならこうです。
何と、この世界の知性の頂に君臨する『宗教家のトップ』2人が、神や宗教に依存することを推奨していないのです。
ある時、イスラム教徒のアラブ人がキリスト教徒の欧米人にイスラム教の開祖、ムハンマドを侮辱されたとして、アメリカの要人を襲撃しました。悲しくも、その人は助からなかった。これは『真理』に則った行為でしょうか。それとも間違った方向に自分の心を持っていった、過ちでしょうか。
やられたらやり返してもいい?親衛隊的に、それをガードするためなら相手を倒してもいい?海外のサッカーファンのように、フーリガン化して負けたら相手を襲ってもいい?そういう、過激な存在もファンと言っていいのでしょうか?
人間には心がある。心があるから人間なんだ。これは、以下の通り私が捻出した言葉です。我々は人間だからこそ誰かを好きになり、何かに夢中になり、夢を大きく持ち、不安になり、励まされ、喜び、悲しみ、打ちひしがれて、立ち直る。
我々に心があるからこそ、ワンピースの世界にあるような感動的な物語が生まれ、それに大きく心を動かされる我々がいる。
しかし、我々のその『心』は、脆いからこそ危うく、崩れやすく、そして依存しやすい。盲目になって何かを盲信するとそれが狂信に変わり、文字通り狂気となって誰かを傷つけるか、最低でも、自分を傷つけてしまうことになります。
冷静な判断力を失って、激しく信じ込むこと。
ブッダや孔子が言っているのはそういう人間になるべきではないということ。大事なのは神でも宗教でもなく『真理』であり、それを守りたかったという理由で人を傷つけたり一線を超えるようなら、それは彼らの教えを守れていないことになるのです。
それはもちろん、キリスト教で考えても同じことです。例えば、遠藤周作の原作をハリウッドの名監督マーティン・スコセッシが描いた『沈黙 -サイレンス-』という映画を観てみましょう。
この映画では、偶像崇拝をしようとする(十字架やマリア像などを拝む)日本人を諭す牧師の姿が見れます。しかし、キリストの教えもブッダらと同じで、
答えは自分の中にある。外に答えを求めるな。
というものなのです。外。それはつまり先ほどから出ている『神』や『宗教』がそれに該当します。ここでは十字架やマリア像です。そして、先ほどの事件のことで言えばムハンマドであり、イスラム教です。
普通、自分の心が平安に満ちていれば、外で何があっても動じることはありません。しかし、外に依存している人は、それを攻撃されたり、侮辱されたり、価値を低く見積もられると、憤慨します。
冷静さを失い、判断力を失い、やがて真理に背を向けた行為にひた走るのです。イスラム教の教えも本当はとても賢い。『聖戦』というのは、本当は皆が連想するような過激なものではないのです。
世界的な宗教の一切で教えているのは、真理に背を向けた生き方をしてはいけないということなのです。
人の心を夢中にさせるものは、時に人を狂信的にさせ、凶器へと変貌させます。皆さんは、『ジョーカー』という映画は知っていますよね。では、それと関連が認められている『キング・オブ・コメディ』という映画は知っているでしょうか。これはロバートデニーロの名作中の名作。
この映画や、同じくデニーロの『ザ・ファン』という映画を観れば、『ファンが持っていくべき心の在り方』ということについて、客観視しながら熟考することができるでしょう。
人間には、自分にしか歩けない道があります。そして同時に、誰にでも歩ける道も無数にある。まるで、あみだくじならぬ『あみだ道』のように広がるその無数の道の選択の連続で、人生が象られていきます。
私はワンピースも、ドラゴンボールも、鬼滅の刃も、ジブリ作品も、どれも大好きです。しかし、その為だけに人生を生きているのではない。私はそれらの作品が大好きだし、お金も惜しみなく使いたい。有限の人生の時間を費やしても惜しくはないと考えています。しかし、盲信は狂信に変わり、人に一線を超えさせます。
冒頭で模型の話をしましたよね。あれは当然専門家への否定ではありません。一つのことに費やして大きな結果を出した偉人たちは大勢いるし、大好きなものに最期まで囲まれて死んでいった人も大勢います。そういう専門家(スペシャリスト)たちがいるから一般人がその文化を知ることができる。一人一人、自由に趣味をやる権利もある。
それに私は以下の記事を捻出した男ですからね。そのことの重要性は人一倍よく知っている。
ただ、そういう突き詰められた物(専門的な物)を見ると、2つの考えが頭に浮かぶんです。1つ目は、
俺ももっともっと突き詰めたい!
ということ。それは往々にして、その専門性と品質が高い物を見た時です。
しかしそういう時は、こういうとても細かく複雑な心のチューニングをして、冷静さを取り戻します。(それを突き詰める価値はあるのか)と。私も何かを作るのは好きですし、自分が本気で好きになったものは、徹底的に追及するタイプなんです。もし冷静さという歯止めがなければどこまでも行ってしまう。狂信者の気持ちは、よくわかるんです。
もし、自分の人生が無限か、1億年だった場合、私は飽きるまで、何千年でも、それに没頭します。しかし人生は有限であり、それを考えたとき、自分が本当にやるすべきこと以外のこと(外)に依存して終わる人生には、虚しさがよぎるのです。
私のような『突き詰めたい願望』を持っていて、しかもそれを極端なまでに突き詰めようとする人間がその欲求を間違った方向に持っていくと、人生を台無しにする可能性があるのです。人生は無限ではない。有限なのです。
アメリカの歴史ある雑誌『ライフ誌』で発表された、『この1000年で最も重要な功績を遺した世界の人物100人』の86位に、唯一の日本人として掲載された葛飾北斎はこう言いました。
彼がそれを言ったのは、88歳で亡くなるすぐ手前だったと言います。葛飾北斎のように、自分にしか生きられない道を究めることは素晴らしい。つまり、尾田栄一郎ならワンピースの為に生きてもいい。それは彼が生み出した世界だからです。しかし、僕達は尾田栄一郎ではない。過去、未来永劫の時間の規模において、我々という存在は唯一無二なんです。
私はやるかやらないかの極端な性格をする完璧主義者ですから、一ファンとして、何かを追いかける自分を客観視したとき、
極めたい!・・だけど、これを極めて何になる?
と、自問することが多い。つまりその模型の数々を見た時私は、自分を客観視したんですね。
自分の突き詰めていることもこの小さな小さな船の模型の数々と同じで、ある人から見たらどうでもいいことで、かつ実際にはもっとやるべきことに時間を割くべきなのに、自分が今追っていることに夢中になってしまっていて、それに時間を割けないという、機会損失を生んでいるかもしれない。
その模型の前に止まってそれらをじっくり眺めていた人はほとんどいませんでした。
何度も言う通り、その船の模型を作った人の否定ではありません。しかし、例えばその人はそれをいくら作っても、葛飾北斎のようにはなれない。『最も重要な功績を遺した世界の人物』に選ばれることもない。超一流的に全世界の人を驚かせるぐらいの模型を作ればわかりませんが、作品自体もそうずば抜けているわけではなかった。しかし、それを作るのには時間がかかったことでしょう。
『内職』と同じです。いくら内職を極めて極めて匠の腕に磨き上げても、せいぜい月給が5万円上がるかどうかです。しかし彼らはとても苦労してその一か月を過ごしたし、疲労も人一倍あり、同じように充足感もある。
宮崎駿は言いました。
宮崎駿が言うのは、『限界効用の逓減』という概念です。それは例えば、仕事終わりのビールは美味いが、二杯目、三杯目と味が落ちていく現象のこと。
つまり2つ目の考えとは、『自分が突き詰めているもの、突き詰めようとしているものは、本当に自分の人生でじゃなきゃ突き詰められないのか』ということ。そして、それを突き詰めることに、自分の有限の時間を割く価値があるのかということ。他にやるべきことは本当にないのか、ということ。
実際には限界効用の逓減のようなこうした原理原則に支配され、『自己満足』に陥り、盲目的になっていないか(何かを見誤っていないか)ということなんです。
例えばご飯を満腹を超えるほどに食べると、もうご飯は当分いらないと思いますよね。それと同じように、満たしてしまうと、人間の行動のモチベーションがなくなってしまう現象があるのです。いわゆる『ハングリー精神』とは『自分の現状に満足せず、高い目標を掲げて努力を続けたいと強く願う気持ち』のことを言いますが、満足してしまうとそこで成長がストップする。この例で更に言うなら、
成長=自分が行くべき道をどれだけ進んだか
ということになります。この話の強化には、下記の記事が最適です。
レディー・ガガは言いました。
『高校の時、友達はみんな将来Googleで働きたいって言ってた。けど、私はそこで検索される人になりたいと思ってたの。』
Googleで働いても、ドーパミンは出る。何なら、Googleというハードルが高い職場じゃなくても、もっと簡単に務められるアルバイトの店でも、そして前述した内職の作業でも同じようにドーパミンが出ます。しかし、彼女は暗にこう言ったわけです。
私の場合、こうして私の頭の中に実に大量の偉人たちの言葉(真理)が入っているものですから、それらがふとした時に頭をよぎって、私に自己省察をさせるんです。
北斎ほどの人物が、それほどまでに道を突き詰めても、まだそれを完成させることができなかった。そういう事を考えた時、私は『有限の人生』というこの限られた命の日数のことを、強く意識してしまいます。
もっと違うこと、自分にしかできないことに時間を割くべきじゃないのか?
この模型を作った人は、本当にこれを作るべきだったのか?それとも、何かを見誤ったのか?
宮崎駿はこうも言っています。
日本が世界に誇る名クリエーター、葛飾北斎、尾田栄一郎、宮崎駿。彼らは自分のやるべきことにすべてを注いでいるように見えます。しかし、私や、この模型を作った人はどうだろうか。ふとそういう疑問が頭をよぎった。
何度も言いますが、その模型に難癖をつけているわけではないんです。ただ、その模型を見て、ふと自分の人生を考えさえられただけなんです。例えば私は野球もプロレスも観ません。ですから、この模型も、野球も、プロレスも、自分とは離れた場所にある。だからそういう風に遠ざけるような言い回しをするだけで、それを否定しているわけではないんです。
もしその模型を作った人が見たら驚いてしまいますね!まさか私にこんな風に模型をたらい回しにされるとは思っていなかったでしょうから。その分野の否定ではありません。これは私自身の問題なのです。
例えば私の場合、何かのコレクションを集めている時、確かにその刹那は充足感に満ちています。しかし、もう一人の自分が自分を客観視し、そのお金があれば人の命を救える事実と照らし合わせ、その自分勝手な欲求を正当化してしまう自分に、恥を覚えている自分がいるのです。
俺は、何をやっているんだろう・・。
と。これは、人を盲目的にさせる、依存なのだろうかと。盲目的な依存状態だからファンをやっていて、利他に徹さず、利己に走っているのかと。
これを突き詰めていたら人生がそれで終わるな。
人は行きたい場所にいくらでも行けるな。
ちなみにこのドーパミンについて、必ず知っておかなければならない事実があります。『押すとドーパミンが出るボタン』をネズミで実験したとき、そのボタンを永久に押し続けたのです。『脳とこころのしくみ』にはこうある。
ネズミは、最初の頃はボタンを押した後に一旦はボタンから離れるが、次第に自由に歩き回れるにもかかわらず、ボタンから離れず、体が衰弱するまで押し続けるようになる。これを自己刺激行動という。ドーパミンがもたらす快感はそれほど魅力的なのだ。
ドーパミンは人を幸せにしますが、同時に人を盲目的にさせる。ある種の麻痺状態に陥らせるのです。
例えば、ストーカー。彼ら彼女らは、『警察のような警備隊』が管理するわけでもないその世界において、行ってしまうところまで行ってしまった人たちです。そこに『利他』の気持ちはない。『利己』の暴走状態こそが、ストーカーなわけです。それが先ほどの
などの映画で客観的に見ることができます。あるいは『マニアック』というマネキンを愛してしまった人の映画でもいい。
アニメキャラクターを好きになることはどうでしょうか。そういう人はたくさんいますから、ここではそれを否定はしません。しかし、世の中にはエッフェル塔や、ベルリンの壁と結婚した人がいるのです。人は精神世界では好きな場所にいくらでもいけるのです。
警察のような警備隊がいないから、いくらでも行きたい場所に行ける自由がある。しかしそれは同時に、そこにはルールと秩序がないことになる。
最後の場合はそこに純粋な純愛があるのならあまり強くは言いませんが、一応、その命までに繋がれてきた命のリレーを思い出してほしい。
アニメキャラを好きになるのは、そこに警備隊がおらず、法律がなく、そしてアニメキャラが自分の嫌なことを言わず、むしろ言って欲しいことをいくらでも言ってくれるからです。何しろ、自分の想像力一つで、どうにでもなりますからね。だからいくらでも好きになれるんです。
北斎や宮崎駿のように一つのことに集中した人間がああ言っているということは、『人生に寄り道をしている時間はない』という教訓がそこにあるわけです。自分がやっているこれは、本当に自分が生きる道だろうか。寄り道ではないのか。
作家、三浦綾子は言いました。
寄り道が人を成長させることもある。だから寄り道をしてしまったことに罪はない。しかし最低でも、自分が今どんな道の上にいるかということだけは、冷静に理解しておきたい。
だけど、人生で何かに夢中になれるって、素晴らしいことですよね!人生のどん底にいる時、生きる意味を見失った時、そこに自分が夢中になれるものが現れ、その存在のおかげで生きる気力を持つことができた。そういうことがあった場合、それがいくら寄り道だとしても、その支えを否定することはできません。
しかし、私は両親がクリスチャンで、前述したように宗教問題を考えてきた人間。例えばそこに現れたものが神や宗教だった場合どうでしょうか。下記の記事に書いたのはこうです。
私の両親が行っている教会でも、あるクリスチャンがクリスチャンになった理由として、こういうものを挙げていた。
私はこれを聞いた時にすぐにそれが『単なる偶然による思い込み』だとわかった。こうして人は宗教に深入りしていくのです。言ったように、私の心には常に強く冷静な自分がいて、それがこうした事実を真理と照らし合わせながら分析し、その是非や真偽を確かめる情報処理を行っています。
私は先ほどこう言いました。
実はこういう風に私が『ハマる自分にブレーキをかける』ようになった理由の一つは、宗教なのです。親がクリスチャンで、私はそうではなかった。そして、この家ではクリスチャンじゃなければ肩身が狭い思いをすることになりました。実際に、
とまで言われました。亡くなった父には、中学生の頃、日曜学校に行かなかったことで強く怒られ、私は目に涙を溜めてハサミを握ったこともありました。だけど、傷つけるほど親を恨んでいなかった。彼らには良い面もたくさんあった。でも、私が受けた仕打ちは理不尽だったと今考えても強く感じることでした。
結局、あれから長い時間が経ち、親はその事実を謝罪することになりました。私がこのサイトを通して、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦(ブッダ)』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』、道教の創案者『老子』、イスラム教の開祖『ムハンマド』、また、キング牧師や、 ダライ・ラマ14世に大きな影響を与えたヒンズー教の指導者『ガンジー』らはもちろん、
アインシュタインやエジソン、ニーチェや松下幸之助等の極めて権威のある人々について学び、圧倒的な説得力を身につけたことが大きいでしょう。何しろ最初は私を、力づくで論破しようとしていましたからね。そうしないと、自分の非を認めると、自分の信仰が崩れ、同時に自分が崩れてしまいまいますから。
こういう事があったから私は、『依存する手前で一歩引く』という、こういう性格になったのです。もちろん、これだけが理由ではなく、この記事全体で話していることすべてが考えるに値する内容です。
夢中になるのはいい。しかし、いつだって冷静な視点だけは忘れないようにしたいですね。
私もこうしてあれこれ考えましたが、私を夢中にしてくれる一切の要素に出会えて、私の人生はとても充実しています。それはきっと、その模型を作った人にだって同じことが言えるでしょう。皆さんもどうか 『自分の生きる道』を意識しつつ、これからも自分が好きになったものを愛していってください。
それが自分の生きる道ならそれでいいし、寄り道だと自覚していて、しっかりとした距離を取れているならそれでいいんです。
そしてもちろん自分だけではなく、皆が平等に楽しい世界を意識しましょう。それが皆が口をそろえて希望する『世界平和』という状態ですよね。間違っても、そこに背を向けるような生き方はしないようにしましょう。もし無意識にでもそこに背を向けてしまう人がいるなら、その人は恐らく寄り道をしている。自分が本当に進むべき道はそっちではありません。
愛着が『執着』に変わる時、人は盲信していて、それはやがて狂信となり、見誤る。
デール・カーネギーの名著『道は開ける』一文にこうあります。
才能のあった駆け出しの作曲家ガーシュイン。バーリンという経営者がガーシュインの才能に惚れ込み、自分の音楽秘書になってくれれば今までの給料の3倍を払ってもよいと申し出た。
『しかし、この仕事は引き受けないほうがいいよ。』
と、バーリンは続けた。
『引き受けたら、君はバーリンの二流品で終わるかもしれない。だが、 君が自分らしさを守り通せば、いつかはきっと一流品のガーシュインになるだろう。』
ガーシュインはこの忠告を心に刻んで、自分の個性に徹することに努め、世界的作曲家となった。
アメリカの作詞家アイラ・ガーシュウィンは、弟のジョージ・ガーシュウィンと共に、ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍し、20世紀を代表する数多くの楽曲を残しました。しかしそれは、バーリンのような人生のメンターが、『俺の下で寄り道をしているとお前の将来は失われるよ』と助言をしてくれたからこその、賜物なのです。
精神面を支える師匠的存在。仕事上(または人生)の指導者、助言者。
自分のやっていることは『寄り道』ではないか。『自己満足的な執着』ではないか。『一種の催眠状態(麻痺)』ではないか。一度立ち止まって自問してみることに、損はないでしょう。何かのファン(追っかけ)になる。誰か(何か)を自分の主にする(外に依存する)。この行為は本当に自分の命の無駄遣いではないか、考えてみましょう。
-松下幸之助
成長とは『踏むべき手順』を踏んで大きくなること。膨張とは『踏むべき手順』を踏まずして膨らむこと。膨張は弾けるのが相場で、常に危なっかしく、安定しない。自分は何かのファンである。そのボルテージ(熱気)は膨張的な膨らみを見せていないでしょうか。
皆さんは『ワンピース』が好きですか?それとも、『ワンピースが好きな自分』が好きですか?
[出典:ワンピース]
もし前者ならルフィたちから多くのことを学び、例えばモックタウンでの喧嘩をスルーしたルフィやゾロのように、自分の格式を下げるような真似はしないのでは?もし後者ならきっとあなたは、理不尽な攻撃をされたとき、それをそのまま(理不尽だ)と憤慨し、仕返しをするでしょう。
何しろそういう人はワンピースに対して狂信的であり、あるいはそれが攻撃されたとは考えず、自分が攻撃されたと考えるのですから。
これは、男女における違いにも似ている部分があります。有名な心理学者がテレビで言っていたのは、上司が仕事を注意する時、男性の部下は『仕事っぷりを指摘された』と考えるのに対し、女性の部下は『自分が否定された』と考える節があると言います。
上司に注意されたときの男女の心理状態
男性 | 『仕事っぷりを指摘された』と考える |
女性 | 『自分が否定された』と考える |
この場合の正解は当然、『仕事っぷりだけが否定された』のであり、決して人間性を否定したのではありません。
女性は優秀であり、女性がいなければ種は絶滅します。男は女性の存在を正当に評価し、今まで以上に女性の地位向上の為に協力しなければ時代遅れとなります。しかし、ことこういうケースにおいてはその考え方は間違っていることになるのです。もちろんすべての人に該当するということはありませんし、女性だけじゃなく、男性側の『言い方に配慮しない考え方』も、時代遅れだとなってしまうでしょう。
しかし、女性側にも努力が必要です。どちらか一方だけがやればいいのではないのです。ワンピースを悪く言われた時、それはもちろん、まず最初に悪く言った人が原因です。しかし、だからといってそこで(自分が否定された)と曲解したり、あるいは思慮深さを忘れ、仕返しをすることをすぐに考えてしまうようでは、この世界にいる多くの道を踏み外す人たちと、同じ過ちを犯すことになるのです。
心当たりがある方。ルフィやゾロたちのあのシーンを、一体どういう気持ちで見ましたか?あなたは本当に『ワンピース』を読みましたか?あなたのそれは、覚悟も真剣さも足りない『寄り道』なんじゃないですか?
成長と膨張は違う。簡単に弾けてしまうような基礎の甘い人は『ファン』ではない。何しろ本当のファンは成長的に基礎を積んで、この場合、ワンピースのことを実に多様な角度から考えて熟知している。その結果、ワンピースの価値をよく理解していて、それは確信に近いものがある。
自分が信じたものを、心底から信じているのです。だからちょっと何かが起きても動じない。そう。モックタウンでのルフィとゾロのように。
勢いのある漫画に載ってつい他の漫画の文句を言う。それも膨張的なボルテージに支配されただけの、『にわか』ですよ!両方ともにわかだ。にわか程度に『本物』は、動かせない。
10代の時に漫画が好きなのは自分だけではありません。膨大な数の10代の少年少女が、漫画に夢中になります。だから、その時に漫画が好きなのは当たり前なんです。
本当の愛が試されるのは、それ以降、漫画には出てこないシビアな現実にたくさん直面したとき、漫画の常識が一切通用しない社会の荒波にもまれた時、それでもまだ漫画の世界にある『確かな純粋さ』を忘れずにいられるか。それが問われることになるのです。
それができる人は、盲信的ではない。狂信的でもない。極めて冷静沈着に取捨選択ができ、認知の歪みに支配されずに、選択的抽出や、恣意的推論をすることがなく、漫画以外のその他の一切の要素と常に照らし合わせながら、その漫画が放つダイヤモンドのような眩しい輝きによって、自分を鼓舞することができるのです。
必要なものと不必要なものをそれぞれ選択し、いらないものは切り捨てること。
自分の見たいものだけを見て、見たくないものには蓋をすること。
自分勝手に(こうだろう)と解釈すること。
我々は、いずれ仕事で大きな役目を担ったり、自分の家族を持ち、あるいは子供ができ、漫画以外のことをたくさん考えるようになります。その時に、あなたはまだ漫画が好きですか?悪く言われてカッとなってしまうような依存状態というある種の催眠が解けてもまだ、漫画の世界への熱を忘れられないでいられますか?
もしそうなら、あなたはとても冷静な視点を持っている。松田優作の言う『身勝手で恐ろしいファン』とは一線を画す、素晴らしいファンです。自分のやるべきこともやりながら、同時に、冷静に、情熱を燃やすことができるファン。それは、最高のファンですよね。
まるでルフィやゾロたちのように、燃えたぎるような情熱を持ちながら、夢を嘲笑する(当時の)ベラミーたちとの喧嘩を避けた、格好いい人間の心構えです。
我々は、ワンピースの為に人生を生きているのではない。我々の人生の中に、ワンピースという夢があるのです。
私がワンマガを買ったのに読まなかったり、三鷹のジブリ美術館にいつでも行けるのに一度も行ったことがないのは、きっと冷静なもう一人の自分が制御しているからでしょう。それだけ、私も夢中になってそれしか見えなくなる性質を持っているのです。私はこれからも適度な距離を保ちながら、自分の人生と共に、私の好きなものを愛していきたいと考えています。
私はワンピースの為に生きているのではない。しかし、ワンピースを含めた私が愛した要素は、私の人生の生きる原動力であり、共にこの人生を生きた盟友なのです。