ドイツの哲学者。生誕1724年。男。イマヌエル・カント(1724~1804年)は、18世紀においてもっとも重要な哲学者であり、現在でも哲学の分野における巨人として評価されています。人によっては、キリストの代わりにこのカントが、
孔子、
ブッダ、
と並ぶ四聖の一人だと言う人もいる、偉大な人物です。私生活での彼は教育熱心でウィットな富んだ人物だったと伝えられており、人間的な魅力にも溢れていたと言われています。論理学、歴史哲学、政治哲学など、その広大で深遠な思想は現在でも哲学を学ぶ者の登竜門であり、また多くの哲学者の研究テーマとなっています。
ドイツのプロイセンのケーニヒスベルクに生まれたカントは、生涯この地を離れることなく、毎日規則正しい生活を送っていました。決まった時間に散歩するカントを見て、町の人々が時計を合わせたと言います。(参照『PRESIDENT 2017.9.18号』)
また、『コペルニクス的転回』の概念を生み出した人物でもあります。現在でもなお人の心や世の中を捉えるうえで大きな意味を持つこれらの概念を生み出すことで、近代思想の扉を開いたと言っても過言ではありません。カントは、『人間の『認識』は対象に従っているのではなく、対象のほうが『認識』に従っているのではないか』と考えました。
例えば、リンゴがあります。普通の人は、このリンゴを見て、(ああ、ここにリンゴがあるなあ)と認識します。しかしカントが考えたのは、『人間が言うそのリンゴはもともと『リンゴ』ではない。『リンゴ』とは、人間が勝手に作った名称であり、概念だ。だからそこにあるリンゴが、『僕は人間にリンゴと言われているようなので、じゃあリンゴということにします』として、人間の認識にリンゴが従っている(合わせている)のだ。』
というものでした。リンゴは喋りませんからね。それをいいことに人間はこのようにして、『対象』を好きなように『カスタマイズ解釈』できるのです。この発想自体がまさに『コペルニクス的転回』です。コペルニクスは、天動説が常識だった当時、
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『いや、地動説が正しい(地球が太陽の周りを回っている)。』
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と主張しました。どう考えても空を見上げれば陽が昇り、そして沈んでいくように、人間の目から見ると『太陽が地球の周りを回っている』ようにしか見えなかったその時代にあって、コペルニクスは真逆の発想をしました。これが『コペルニクス的転回』です。そう考えるとカントのこの発想の転換は、『コペルニクス的転回』だということがわかります。
カントは著書『啓蒙とは何か』で、
『知る勇気を持て。』
と言っています。つまりこれは、『最初に物事を知らない人がいる』ことが前提なわけです。しかし、世に生きる多くの人々は、まるで世を『知っている』ようにふるまっている。カントは、
『いや、その認識は、固定観念に支配されているだけかもしれない。真実はほかにあるかもしれない。』
として、『啓蒙(人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導く)』しているのです。
ゲーテは言いました。
人はもっと真剣に真実を追求すれば、必ず答えを見出すことができます。しかし、多くの人は最初から『理解できない』と決めつけて、答えを探求しようとしません。
だからソクラテスは無罪なのに、無知な裁判員たちに裁判で死刑に多く票を入れられ、キリストはユダヤ教の教えを『更新』する為に立ち上がったのに、政治的な扇動の罪で、十字架に架けられ命を落とすことになり、孔子は、今でこそ中国を代表する大学者や聖人とされていますが、同時代人の多くからは、出来もしないことをしようとしている身の程知らずや物好き扱いされていて(憲門第十四-四十)、ブッダは、バラモン教(現ヒンズー教)のカースト制度を否定したことで、バラモン教司祭の強い反感を買い、嫌がらせをされていたのです。
人間とは、大勢の意見が『黒』でまとまっているとき、たった一人の人間が『白』と言えば、たとえそれが真実であっても『白』の方を隠蔽し、それを主張する人間を異端児扱いします。その方が『楽』だし、そうすることで、自分たちの居心地が脅かされないと考えるからです。
しかし、カントは言いました。
『知る勇気を持て。』
まさにカントは、我々人間に本来眠っている潜在能力を、揺り動かした人物だと言えるでしょう。