儒教の始祖 孔子(画像)
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有用の学とは、直接自分の人生、仕事に関係する学問。そして無用の学とは、直接は関係ない学問である。例えば、競輪選手が美術館に行って絵を鑑賞する。その反対で、美術館のスタッフが競輪選手になるための栄養知識を学ぶ。そういうことである。一見すると、無用の学とは、的が外れた無意味な時間、文字通り『無用』であるように思える。だが、そういう学習こそが、自分の本質の格を上げる貴重な時間なのだ。脳科学でもそれは説明できる。人間の脳にはあらゆる『番地』がある。
思考系、運動系、感情系、伝達系、聴覚系、視覚系、理解系、記憶系。
実際には100を超える番地があるというが、大きく分けるとこの8つが主な番地であり、人間は常に、TPOによって使う番地を使い分けている。
よく、『ひらめきは右脳』だと聞いたことがあるはずだ。あるいは、『ひらめき』は、『セレンディピティ』と言われることもあるはずだ。左脳で突き詰め、右脳でひらめく。使う脳番地を、切り替えた瞬間に煮詰まっていたアイディアがひらめく。そういうことは、往々にしてよく聞く話である。
たとえば日本マクドナルドの原田社長は、あの『無料コーヒー』のアイディアを、風呂でリラックスしているときに思いついたという。このひらめきを、『セレンディピティ』という。これらは、リラックスしているとき、つまり、『直接自分の仕事とは関係のないことをしているとき』、『いつもと違う脳番地を使っているとき』、そう、『無用の学』を体験しているときに起こりやすいのだ。
もちろん、『有用の学』を疎かにしては、決して活かされない。だが、『無用の学』を、『有用の学』と同じくらい、重んじよということだ。孔子はそれを紀元前から見抜いている。俗に徳育・知育・体育というが、孔子の時代の知育は歴史や文学や政治学であり、体育は弓や御車だった。
では徳育はというと、道徳を直接教えるのではなく、もっぱら芸術科目を教えていたのだ。すぐれた詩や音楽に耳を傾け、純真無垢な精神に触れて自らも純真無垢な心と精神を呼び戻し、精神的・肉体的にリフレッシュする。そうすれば、冷静な判断力や豊かな感性が取り戻せ、正義や公正な行動がとれる。科学など今の何万分の1程度しか発達していない時代にそれを見抜くのは、よほど人間の真髄に目を向けていなければできない。
とにかく、無用の学も仕事の一貫。あるいは、ワークとライフの間にある境界線は、人為的なものだという事実を見極めることである。無用の学とは、『直接』ではないが、『間接』である。『間接』の重要性は、人間ならだれもが知っているはずだ。いくら筋骨隆々で、あるいはしなやかな肉体を持っていても、関節が悪ければ、十分にその機能は活かせないのだ。
子曰く、詩三百、一言もってこれを蔽う。曰く、思い邪なし。