儒教の始祖 孔子(画像)
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内省
こんな当たり前すぎる言葉を内省することに意味があるのか。大有りである。むしろ、『ありふれた言葉』だからこそ、内省するべきなのだ。なぜなら、『ありふれている』ということは、この人生の中で何度も何度も耳にしてきたということであるが、あくまでもそれは、『何度も耳にした』というだけであり、その『耳にした』ときの自分は、子供だったかもしれない。
精神年齢が、未熟だったかもしれない。あるいは、それ以外のことに夢中で、理解したつもりになっていたかもしれない。例えば、『ピンチはチャンスだ』だとか、『チャンスは待っていても来ない。自分で掴むものだ。』だとか、『二兎を追う者は一兎をも得ず。』とかいう言葉も同じだ。
よく聞く。実にありふれた言葉だが、その言葉の意味を本当に理解している人は少ない。また、こういう黄金律の話になるとき、それを教える親や教師といった教育者がきちんと真意を教えないのにも原因がある。
例えば私のクリスチャンである母親は、
母親
と私が子供の頃常々言っていたが、それは母親にとって『私がクリスチャンになれば都合がいい』だけであり、私の心が信仰を求めていない以上、それを押し付けるのは間違った教育である。なぜこう言えなかったのか。
母親
母親
そう言う選択肢も、あったはずだ。母親がそういう人間であれば、私は母親を尊敬し、結果的にクリスチャンになる選択肢も、あったのかもしれない。(母親の名誉のために言っておくが、母親は、かけがえのない私のたった一人の母親である。)
今回の孔子(論語)の言葉と同じ言葉を、聖書ではこう書いている。
『自分がしてもらいたいと思うことを人になせ』
多少ニュアンスは違うが、それは時代のせいだ。根底の真理は同じ。人生は、鏡だ。自分の身の回りの出来事は、全て自分の心を映し出す鏡だという事実を受け入れたとき、この言葉の真の意味を、理解するだろう。
参照文献
子貢問うて曰く、一言にしてもって終身これを行うべきものありや。子曰く、それ恕か。己の欲せざるところは、人に施すことなかれ。