儒教の始祖 孔子(画像)
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人間は必ず死ぬ。なにかこういう言い回しは、とても”儚く、虚しい”。そもそも、『死ぬ』という言葉に、我々はあまりにも悪い印象がある。
それは、『痛み』を経験しているからだ。その『痛み』の、最高峰にあるのが『死ぬ』ということだから、怖いのだ。それは、『死体』を見てしまっているからだ。昨日まであんなに元気だった人が、急に『死体』になるのを見るのは、あまりにも苦痛だからだ。それは、『殺人』、『死亡事故』を知ってしまっているからだ。それに付随する事件、事故のあまりにも無残な精神的凌辱や理不尽が、我々の心を、強くひねりつぶすからだ。
だが、我々は人間本位だ。アリを潰して殺したり、エゴを満たすために森林伐採をして植物を殺したり、一部の人しか生物多様性のことを重く考えていない。そして我々は、自分本位だ。今日、今まさにこの瞬間にも、この世のどこかで誰かが亡くなっているのに、我々はテレビを見て笑い、酒を飲んで踊り、自分の私利私欲を満たすことを考えている。
人間とは、なんと薄情で、そして同時に、なんと繊細な生き物なのだろうか。人間の、”心”がそうさせる。人間に、”心”があるから、”儚く、虚しい”のだ。この世に生まれ、不幸と幸福に一喜一憂しながら、この世を去る。 ”儚く、虚しい”生き物なのだ。
だが、だからといってそれが、この世を下を向いてくよくよと生きていく理由にはならない。むしろ、有限で、儚い人生だからこそ、 ”尊い”人生を生きるべきなのだ。『死』など考えなくていい。考えても考えなくても、いずれ生命は尽きる。この世に生まれたことに悔いを残さないよう、前を向いて…
珍しく自分の将来に落ち込んでいるのび太を見て、のび太の教師は言う。
…そして、上を向いて生き続けるのだ。
『刑務所の鉄格子から、ふたりの男が外を見た。ひとりは泥を眺め、ひとりは星を眺めた。』
あえて死を問う。曰く、いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。