儒教の始祖 孔子(画像)
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『勉強』とは、現代中国語では『無理強いをする』という意味である。的を外しだした教育課程、『成功者になる為の裏技』、『異性にモテる為の秘訣』、とかく人間は、『学問』や『知識』を出世の道具としかみなさないことが多い。そのため、文字通り『知識の無理強い』がそこらじゅうで行われていて、人としての的から、外れている。
知識の習得とは、本来『自分の為』にやるべきことだ。私もこれらの『違和感』に気づき、中学二年生から学校の授業をまともに受けていない。家庭で抱える複雑で大きな問題が解決していないのに、勉強なんて手につかない。自分の心が、『本当の優先順位』を叫んでいたのだ。
それから波乱万丈の半生があり、問題の解決、あるいは問題解決能力を身につけた今の私は、面白いくらい本をスラスラ読めるようになった。当時では絶対にありえないことだ。当時の私に本や教科書を見せたって、絶対に頭に入らなかった。それよりも重要な問題があると、脳が、心が、魂がわかっていたからだ。勉強、知識の習得とは本来、環境の差異がある人それぞれでタイミングが違うものだ。
学校へ行き足並みをそろえて同調することを強制し、出来なければできそこないの烙印を押し、出来れば優等生の評価をすることは、間違っている。自分が本当にやるべきだと思ったことを、そう思ったときに学べばいい。もし知識が頭に思うように入らず、うまくいかないのであれば、その知識は、おそらく現在の自分には相応ではない知識なのだ。流行、セオリー、金儲け、異性問題、とかく人はそれらに頭を支配されがちだが、勉強(無理強い)している違和感はないか、自分に問いかけてみるといい。
自分が本当に欲していて、現在の自分の身分に本当に相応なことであれば、人は自然と、その知識を身につけていくものだ。人目を気にして『アンテナを張ること』に気を取られず、自分の人生の為に『習得していくこと』を重んじよ。一度しかないこの人生。一体、誰の目を気にして生きていくつもりなのか。
子曰く、古の学ぶ者は己のためにし、今の学ぶ者は人のためにす。