儒教の始祖 孔子(画像)
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例えば、キリストの偶像崇拝、 近代人によるソクラテスの『非宗教化』、後年の仏教徒によるブッダの神格化、 これはどれもが宗教の歪曲解釈、つまり曲解だ。あるいは、『聖戦』という詭弁を盾に、人殺しをしている様イスラム過激派がいるが、では、イスラム教とは、=テロリストなのであろうか。
『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうある。
宗教には、テロリズムのイメージがある。宗教とテロは関係性が強いのか。これはもちろん誤解で、実際はテロリストが宗教を口実にしているだけ。
つまり曲解なのだ。 むしろ著書では、『どちらかというとキリスト教の方が好戦的』だと言う。しかし、今日も明日も、『聖戦』は行われるのだ。 この時点で、曲解が許されないことが十二分に理解できるだろう。
だがもちろん、『適応』ならいい。例えば昔は、パンと葡萄酒があった。だからそれに例えた。しかし、今では、あるいは日本という国には、ご飯とみそ汁がある。それを食べればいいのだ。無駄にパンと葡萄酒に固執している人間がいるが(うちの母親がそうだが)、キリストはそれを見てこう言うだろう。
後のことも全て同じことだ。曲解はダメだが、適応はいい。その違いを肝に銘じることで、曲解を防げる。もちろん、争いの根幹にある憎悪の種は、傍から見た人間が口出しできないほど複雑で、邪悪で、煮えたぎるものがあるだろう。だが、それとこれとは別だ。曲解はダメだと言っているのだ。まずはそれが、真理だ。
子曰わく、故きを温めて新しきを知れば、もって師たるべし。