儒教の始祖 孔子(画像)
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まず言っておきたいのは、子を棄てた人間についてだ。そういう親の下に生まれた子供も大勢いる。彼らは親を愛しているだろうか。彼らの親は彼らを愛しているだろうか。いや、彼らは『親』ではない。棄てたのだからそれは、『親』には値しない。親子は愛で結ばされているのだから。そういう場合は、違う誰かが『親代わり』になってくれていないだろうか。そういう場合もたくさんあるはずだ。
だがもちろん、その『親代わり』さえいない人もいるかもしれない。だが残念ながら、そこまで行くと本人の責任かもしれない。自分の生まれた環境に腐って、悲劇のヒーロー・ヒロインを気取られたら、そりゃあ周りも敵わない。
心配しなくていい。 実際に親子がいる家庭にも、およそ親とは呼べないような教育・育児をしている人間もいる。ここに書いたような親がそうだ。彼らは『親』と呼べるのだろうか。考えてみると良い。だから心配しなくていい。きっとこう思うだろう。
なんだ。親がいることで、逆にマイナスに傾くこともあるんだな。
もっとも、彼らを『親』としていいのかどうかも首をかしげるところだ。つまるところ、親子は愛で結ばれているのである。結ばれていないのなら、それは『親子』ではないのだ。孔子は3歳で父親を亡くし、母親を24歳で亡くした。若くして親を失った人間からすれば、『親を大事にしろ』という意見は、自然と心からこみあげてくるのだ。
私の親もつい昨年に、
などということを平気で言ってきた。10代の頃だったらこういうことを原因にして非行を繰り返したが、私は論理的にその不正を正し、今ではそのことを母は悔いている。
たとえ世界に20億人キリスト教徒がいても、残りの50億人は異宗教だ。それなのに、どうして自分たちだけが正しいと思っているのか。その絶対的な事実を淡々と説明し、その排他的思想が、あらゆる戦争や争い、不和の原因になっていることを諭すと、10代の頃とは違い、自分の非を認めたのだ。
親だって人間。誰かに断固として道を示してもらわなければ、自分がやっていることが間違いだと見極めることが出来ないこともあるのだ。親に求めすぎて、それについて腐る気持ちは、私には痛いほどよくわかる。だが、親も人間なのだ。それを頭の片隅に理解しておくといいだろう。もし不和が生じている人がいるなら、いつか必ず和解出来るときがくる。もし相手がさ迷う子羊なのであれば、自分が『親』となって、道を指し示してあげればいいではないか。
子曰わく、父母の年は知らざるべからざるなり。