儒教の始祖 孔子(画像)
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福沢諭吉のこの言葉が、今回のテーマの的を射ている。あるとき、筆一本で食べていこうと決意した尾崎行雄が福沢を訪ねたときの話だ。尾崎が
と話したところ、福沢は
と一喝した後、こう言ったのだ。
問題は『筆一本で食べていこうとした尾崎行雄』である。もしそれが本当だとしたら、『そのやり方では無理だ。誰も買わんよ。』と、福沢は助言したのだ。世の中には多くの人がいて、その人たちすべてに、それぞれの時間が流れている。察しの通り、大体が『常識に身を任せてきた人』であり、尾崎の言う様な『非常識な常識を見破る人(識者)』ではない。
例えば尾崎が、70億人の人間全てに対して重要な、『真理』についての演説を、渋谷の街で行ったとしよう。一体、誰が耳を傾けるだろうか。では今度は、尾崎が顔を白塗りにし、ピエロになって、爽快な音楽と共に誰もが驚くマジックショーを披露した場合はどうだ。それは、渋谷の街を歩く人間のニーズに、ピッタリなのだ。
もちろん重要なのは『真理』の話だ。だが、それに人間全員が耳を傾けるわけではないというのが、愚かだが確かな、事実なのである。それは、キリストとソクラテスが無知な大衆に殺されたことを考えてもわかるはずだ。
『いい加減』というのはつまり、『的外れ』な矢を射るということであり、『良い加減』というのはつまり、『的確』。つまり『的を確かに捉えている様』が的確だ。福沢諭吉の言う様に、『猿にでもわかるように書いた書物』のその中に、やんわりと『真理のエッセンス』を混ぜ込むことも出来るはずだ。まずは大勢の人間心理をよく理解し(的を捉え)、そして彼らのニーズに合う表現方法で情報を発信し(狙いを定め)、その中に、かつしっかりと『真理(極めて重要な問題)』を訴えて説く(矢を射る)。これぞ的確、良い加減なのである。
夫子、莞爾として笑いて曰わく、鶏を割くに、いずくんぞ牛刀を用いん。