儒教の始祖 孔子(画像)
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もう簡単に考えればいいのだ。『1+1=2』と言った。だが、その場にいる100人全員が、『いや、4が常識でしょ』と言った。彼らは、『1人と1人が力を合わせれば、3倍にも4倍にもなる』というような、よく聞く精神論的な話を介入させているのではなく、本当に『1+1=4』だと思っている。
だとしたら答えを正さなければならないのは、『100人の方』だ。正論を言っている人間が強いのはなぜかと言うと、彼らが『正しいことを言っている』からだ。彼らが強いというより、正しいことが強いのだ。
例えば、『一枚の紙より、一枚の鉄板の方が丈夫だ』 という意見は正しい。その逆の意見を言う人は、間違っている。前者が正論で、後者が邪論である。では実験をしてみよう。するとすぐに結果は出た。紙と鉄板の耐久力をチェックする為に、燃やしたり切りつけたりしたのだ。すると当然、正論を言った人通りの結果になった。まるで、グーがチョキに勝つように、当たり前のように正論を言った人の思い通りの結果になった。そして当然、邪論を言った人の思い通りにはならなった。
『強い』だけではない。正論は、スムーズに事を運ばせるための、まるで『潤滑油』だ。
例えば、ガイドなしで、ガイドブックも持たずに海外の自然遺産に出かけた旅行者。現地を知り尽くしたガイドと共に自然遺産を観光することにした旅行者。危険な山道を登山することになるその観光。危険な虫や、植物、動物、落石や遭難、帰りのバスの時間や陽が暗くなる時間、そこからの距離、温度、休憩できる小屋、食事、何もかも無知な、前者の旅行者。それらを知り尽くした、後者のガイド付き旅行者。 どちらがスムーズな旅行を経験できるだろうか。
『正論』を言う人は、『正しい情報・知識を知っている人』ということでもある。 もし自分が言っていることが本当に正論だと思うなら、たとえ相手が家族であろうと、意見を曲げる必要はない。曲げる必要があるのはいつだって、邪論を言う方だからだ。それを見極める判断基準は簡単。往々にして、正論を言う人が救える範囲は巨大だが、邪論を言う人が救う範囲は矮小だ。
子曰わく、徳は孤ならず。必ずとなりあり。