儒教の始祖 孔子(画像)
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こういう言葉がある。
『自分は生まれながらに他人を支配する人間だと密かに自分に言い聞かせることによって、人間は計り知れない力を身につけることができる』
『他人を支配』という言葉の意味を歪曲して解釈し、あるいは『援用』して自分の都合の良いようにこの言葉を悪用する人もいるだろうが、もちろん、この言葉はその類を助長させる為の言葉ではない。『他人を支配』というのは、『制圧』という意味でもあるが、それよりも考えるべきなのは、まず『アンドリュー・カーネギー』が、間違いなく日本人ではないということだ。
だとしたら、言ったのは日本語ではない。つまり、『支配』は、『コントロール』であった。これならどうだろうか。他人や、環境をコントロールできる人間。もっとも、超能力を使って『操る』という解釈もできるが、これを読んでいる人にそれをする人はいないだろう。我々が生きているのは『たった一度の自分の人生』なのだから、その他一切の森羅万象が、その邪魔を出来るわけがないのだ。出来るとしたら、前述したように、魂に入り込んで『操る』以外、方法はない。
よく、『あいつは操られている』と言って、カルト宗教や悪の道と言った『脇道』に流されている人を表現することがあるが、それは別に『超能力』で操られているのではない。『コントロール室』にいる自分が、居眠りしているだけだ。つまるところ『自分の人生のコントロール』とは、自分も、他人も、環境も、支配して屈さないことを言うのである。たった一度の自分の人生の操縦席に、座るべし。
子曰わく、天、徳を予に生ぜり。かんたいそれ予をいかんせん。